秋の鹿は笛に寄る
鹿はいません。
秋で思い出しただけのことわざです、あしからず。
でも鹿出そう、出ても不思議じゃないような森というか森の一歩手前のような林などでしたが、それでも森林浴的な効果があるのか急に健康になった気がしました。
秋の七草の一つと謎の植物*1が、柔らかい日差しのなかで目に優しかった。
思い出したことわざは、どういう意味だったっけ?と検索してみたら
【読み】 あきのしかはふえによる
【意味】 秋の鹿は笛に寄るとは、恋に溺れて身を滅ぼすことのたとえ。また、弱みにつけこまれて危険な目にあうことのたとえ。【注釈】 秋になると鹿は発情期のため雄と雌が互いに求愛するものだが、人が雌鹿に似た鹿笛を吹くと雄鹿はそれに誘われて近づいてきて、人間に捕らえられてしまうことから。
なるほど。なんだか狼王ロボみたいな話じゃないかかなしい…気をつけるんだよ、鹿。
でも笛を吹く人もかなしい人なのかもしれない。笛を吹かずに居られないかなしみはあるんだろうとは思うけれど、秋はいつまでも続かない、鹿だって、いつまでも寄ってきてはくれないよ。それにそのかなしいは、鹿が寄ってきてくれたって癒えるものではないのだろうから、みんなかなしいという話じゃなくて、でも自分を救えるのは自分だけかもしれないという話だけれど。
やたらと笛を吹く人って、ねぇなんでそんなに吹きたいだけ吹きまくってるのに、気を病むことがあるの?と思っていたけれど、そうして吹いたものと吹いた音への反響とが、よりその人を形作っているのかもしれないなと、ふと思った。
吹くことで、その音と、聞いた人の心持まで含んで、吹いた人に帰ってきちゃってる、っていう感じなんだろうかと。
それじゃかなしいは大きくなるばかりで、笛の音も濁るばかり。
一人で堪えてる人にはそんなに堪えてちゃよくないですよ、って少しでも音を出して楽になるなら出したほうがいいんじゃないかと思うんだけど、でも吹くことでよけいにかなしいの増しちゃってる、そんな吹き方だと、誰も楽しくない以上に吹いてる人がいちばん楽しくもないだろうし、よりかなしくなるだけじゃないのかなと。
鹿がいなくなる前に、根本的なことをちゃんと治したほうがいい。
ただ純粋に吹きたい、鹿を呼ぶでもなくただ聞いてくれたらうれしいなくらいの笛は、鹿だって聞いたそれがかなしい音だったとしても、あぁこの人はかなしいから吹いているんだな、と何も言わなくても受けとめてくれたり、してくれるんじゃないかとふと思いました。秋の夕暮れ。
鹿のことわざでだけどなんだか、鵺の鳴く夜は…とか、悪魔が来たりて…とか思い出しちゃったので
鬼首村でも久しぶりに読もうかと思います。
ミステリーとしては「獄門島」のほうがおもしろいと思うのだけど、これは最後の台詞がいい。と思います。
*1:名前を知らないだけですべてが謎と表記されます。