六月に雨が

You should take your umbrella.

もののけ物語

 

 

もののけ物語 (角川文庫)
 

 

数奇な運命という言葉がある。運命の巡り合わせという言い方もある。これらの言葉は大概、人の生き様や出会いのことを指すのだが、時として、人と物の関係や器物そのものの運命を指すと思われる時もある。

 

そう始まるこの本は、解説で波津彬子

加門先生は嘘偽りなくこういう日々を送っていらっしゃるのです。

 

念を押すかのように書いているように、小説ではなく、加門七海の文物や物との不思議な縁や出会いを綴ったエッセイ集。

 

嘘偽りない…と思うとちょっと怖い話もある。古い文物や人形という、それでなくても怖くなってしまうものにまつわる物語でもあるし、一緒に収録されている「怪談徒然日記」まで読むと、怖がりのくせにどうしてこういう本を読んでしまうんだ!と自分に思うけれど

 

たとえばコップを一個買った、としましょう。家に一つ物が増える。物理的に。
ところがそのコップ、うっかり落として割ってしまった。
ねぇ、その割れたコップは、元のコップとは違うでしょう?
へんげ、ではないかもしれないけれど、変化して別の物になる。

元のコップがなくなれば「明日の朝ご飯のお茶はどうやって飲もう?」
と些細な問題だとしても影響を与えるかもしれないし

その元はコップだったものが、とても欲しくてようやく手に入れたものだったとしたら?
手にすっかり馴染んで、寒い朝や眠い真夜中もいつも手に収まるようにして
長年を共にしてきたものだったとしたら?
どうだろう?
ただゴミ箱にぽい、(地域別の分別に従ってね)と捨てるだけで、何も思いはしないだろうか?
…微妙な思いでも抱くとしたら、それも物と人との間にあった「何か」ではないでしょうかね?

 

そんなことを思っていた。

 

あるいは祖母や大叔母たちの持ち物。「これはお祖母ちゃんが誰々さんにもらったものなのよ」
と聴かされた話に見たこともない遠い誰かを思い浮かべたりした時に
「もの」に物語を感じたことがあるけれど

そうして時に人から人へ、その手を渡ってくることで「もの」のほうだって
様々を経験しているのかもしれない。

そう思うとここに書かれてあることは、オカルティックと払いのけてしまいたくなるような話でもなく、そう不思議ではないことのような気もしてくる。

人とものとの縁。

 

そしてそんな縁への加門七海の思いときたら。

私はなるべく物を減らそうというか増やさない方向にしようと思っているけれど、それは後の事を考えたということと、自然と本でも中身を読んだのであれば持っていることにこだわらなくなったというようなことなんだけれど、でもどちらかといえば本質的には「なぁにが断捨離じゃあああああ」と思うような、悟りとは程遠い性質なもので

惹かれるだけでなく、縁を愛しんで、ものの思いを汲み取るように応えているような加門七海の、本当に情のようなものに、いいなと感じたけれど

私も見事に招かれてしまったのかもしれないこの表紙の招き猫。
艶めいて、ふくよかな丸みを帯びた福福しい…この招き猫にまつわる話を読んで、え、ええええ?と二度、三度、見直してしまいました。すごい。

こういう人なんだもの、ものを、もののけを語るにふさわしい、いやこういう人だから語れる物語であり、そうでなければむやみと語っていい話でもないんじゃないだろうか?とさえ、読んで思っていた。

 

たとえばこんな本の話をするのなら、ついでに自分の見聞きした話をしたっていいのかもしれないけれど、物が一つ増えたり減ったりの物理的なことと同じように、言葉だって、たとえ小石一つのようなものでも水に投げ込めばそれはもう元の水ではないんだし…

そんなことを思いながらふと、もののけ、という言葉を検索していたらこういうページが出てきた。

物の気、物の怪とは何か - 日本語を味わう辞典(笑える超解釈で言葉の意味、語源、定義、由来を探る)

もののけ(物の気、物の怪)とは、幽霊、生き霊、妖怪、化け物などを漠然と示す日本語。「物の怪」と書くと、物や人が変身した化け物がイメージされ、いかにもそれらしいが、「怪」と書くのは当て字で、本来は「物の気」が正しい。

古く日本には、言葉は人の生き死にを左右するような力を有するという信仰があり、幽霊や化け物に対して「おまえはお菊の幽霊だな」とか「あなた、もしかして雪女ではありませんか」などと尋ねようものなら、たちまちのうちに取り殺されると考えられていた。そこで、そんな災難を避けるために物や人を漠然と指し示す「もの(物、者)」という言葉を用い、それに煙やかすみのような存在を意味する「気(け)」を付けて、「化け物っぽいやつの気配」というような意味あいの「もののけ」というぼやけた言い方にしたというわけだ。

よほどこわかったんだねと、同情の言葉のひとつもかけたくなるようなもってまわった言葉である。

 

 …うん、こわいんだよ。

本来の語源そのものではなく、笑える超解釈で、とあるけれど、でも言葉は時にこういうものでもあるんじゃないかな?勇気を持って話をする、ということと、これはまたちょっと違うことのように思う。

柳かな?お化けかな?と思うものにお化けだ!と決め付けて騒ぐ自分の言葉に決められちゃうこともあるのかも、ということも思いましただよ。

 

…だからって語尾でふざければ怖くないと思う私はただの阿呆かもしれないけれど…とはいえ加門七海だって、視たくないものは視ない、応えられない声には「いや!」とか「無理!」とハッキリきっちり一線を引いているのだし。

だから、恐れ慄かせてくれながらも、楽しんでいられるんだろう、読んでいて時にゾゾっとしつつも、おもしろく読んでいられるんんじゃないかと思う。

 

加門先生にとってはこれが日常、近況なのです。しかも話術が巧みで話が面白い。結局聞き入って深夜になってしまったりするのでした(そして真夜中に超怖い怪談を聞くはめになったりする……)。

 

とこの本の解説を書いている波津彬子の、「もの」の思いや「もの」への人の思いが妖しくもせつない骨董屋幻想譚もいい、おもしろい漫画なのですが

 

 

そういえば波津彬子の漫画も、お譲りしたり寄贈したりと手放しても、まったく読む本の趣味も違う、知人の知人の知人…というような人から「本好きだって聞いたから」と引越しのついでに整理したという本をいただいたり…という中から出てきたことが5回も6回も7回もある(その他の本はそれぞれ一冊だってかぶってもないのに…)のだけれど

うん、でもまぁそれはそれだけの「何かしらの巡りあわせ」のようなもの、と思っているし、私にはその程度で充分、それ以上の話は読むにかぎる…

 

 

しかし怪談徒然日記のほうまで読んでいたら「白い餅みたいなもの」が怖くなって「餅」そのものも怖くなって「餅に近いもの」まで段々と恐ろしくなってきてしまったじゃないか…自分の頭で膨らませてどうすると思いつつ、しばらく食べられないかもしれない…*1

 

 

*1:饅頭怖いの怖いじゃないので餅は投げないでください…