逢坂の六人
読んでいた本。
延喜四年の、皐月の朔(さつきのついたち)。
山の端に白い月がかかり、あたたかな夜風が吹いている。そのしじまの底にさらさらと鳴りつづけているのは宇治川の瀬の音で、貫之はそれを片耳に聞きながら、文机の前に石地蔵のようになっていた。
みかどの号令により編纂されることになった勅撰和歌集の選者となった紀貫之。序文の執筆に唸っているうち、まだ幼き阿古久曾”あこくそ”と呼ばれていた頃、逢坂で過ごした歌人たちとの日々に心は戻っていく…
やまとの心にはやまとのお歌、というお話でもあるけれど、排他的な話でもなければ、政治的なことでもない。
漢詩のほうに才があった人でも硬骨漢で清々しかったと思う道真公に心を寄せ、彼を追いやった政のドロドロに辟易し、選者に取り立ててくれた権力者を曇った眼と見る、そんな貫之がただよろこんで、よろこびのあまり舞い上がる思いをしたのは、幼き頃からやまとの歌を貫之に教え、その心も教えてくれたような、愛しき人々の存在があったからかもしれない。
母と離れ、引き取られた先で可愛がってくれた養父も亡くなり「夢のやまい」に囚われていた小さな貫之の側にいた、孫のようなものと愛しんだ小野小町に、おじ上となついていた在原業平。
二人の描写がとてもいい。才のある歌人、見目麗しく美しく、ともの知らずの私はそのくらいにしか知らなかったけれど、歌を詠む人の見る目、歌う心を持った人が、じわじわと物語の中から立ち上がってくる。
現代のものであればまだ、あぁなんだかいいなぁと思いこそすれ、古典ということになるともう…わかるのかどうか?…それ以前になんというか、それはもう、解釈を習うというようなものであって、そこに心を見ようとさえ思えないと思ってしまうのだけれど、この物語を読んでいるうち、歌を詠んだ、思いを込めた人がいたんだなぁと、当たり前のはずのことを思い、それを感じてみたい気がしてきた。
歌人といえば恋の話もつきものだけれど、小野小町の話には「ふふふ」と笑ってしまったり、なんとも胸苦しくて言葉を無くしてしまいそうになったり。
醒めた人と言われ、「こわい情」と自らを言う小町の情は、けれど、けれどなぁ。たった一つを求める心。それを「こわい」と言うのかもしれないけれども。
うつろうのは見えない心のほうがかなしい、と言われればそうだなぁと思う。けれど、うつろわぬものはなく、ただ、色あせて、思われないことがかなしいのだろうか、思わなくなることもまた、かなしいのだろうか…けれど思いつづけていれば、それはかなしくないことなのか…
「逢いたいお方に逢いたいときは…」
「夜の衣を返すのじゃ」
小町の言葉はせつなくも本当であるようにすんなり心に入ってくる。
愛しまれ心から慕っていた貫之の曇りなき心が、人々をいきいきと活かしているのかもしれない。
幼き貫之のあこくそという名をさも愛しげに呼び、何かあれば駆けつけと、可愛がるけれど、まったく幾つになっても色男だねぇと思う業平の男ぶりは、そんな小さな子供にも溢れるほどの心を持って、好きならとことん好きだと、子供相手にさえ素直に心曝け出すような心ぶりが、何とも沁みるからじゃなかろうか。
歌の才だの姿の良さなどではなく、綴られた言葉から立ち上がってくる情の美しいことに、なんとも好もしい人に思えた。
そして大伴黒主の滅びた都の話。
都が廃れ、都が興る______、その裏側にはかくも無残な物語がある。
恐ろしくもの悲しい痛ましい物語は、幼子に聞かせてよいものか、と逡巡しそうな話でもあるけれど
あこの君よ、知っておくれ
知って欲しいという真の心だけはあったような気もするし。
僧正遍照の話になるともっと、怖い、怖い。
けれどかなしい。
可愛いあこくその見る、近しい世界は、雅な歌のやり取りや煌びやかな舞いに彩られているけれど、無残な物語があるのは古に限った話ではなく…
それでもここに登場する人々はみな、何てやろうだいと言いたくなる僧正遍照でさえ、あこが子供だから、わけもわからぬだろうから、と怖い目にあわせているのではない。
だから、よろこびもかなしみも、あこの心にしっかりと刻まれて、今のことのように甦る。
幼いあこくその見たとりどりの色のような心。
人と人の世をしかと見ながら、取り立てられて選者となった貫之の、序文に込めた愛しい人々への思いはやがて六歌仙の物語となり「伊勢物語」へと連なっていく。
本当かどうかは知らないけれど、このように生きた、歌った人々がいたという物語。
あこくそとその母あおいの愛らしい姿も、果実を二つ、ころん、と置いていかれたように残り
古典というだけで通りいっぺんに、本当に通り過ぎるようにしてしまった物語も、残り香の中もう一度読んでみようかと思った。