六月に雨が

You should take your umbrella.

Snowman

 

 

 

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雪の降らない町に生まれた。一年に一度降っても、停めてある車の屋根やボンネットにほんの少し薄っすらと、白いものが乗っている程度。

雪を見たことのない子どもはそれでも朝一番からはしゃぎ、ワクワクして、少しでもきれいな白い雪を見て、触って、手に入れる為に、いつもより早く家を飛び出して学校までの道の間で、ようやく小さな雪の玉が、小さな手の平に一つ、出来る。

冬でも、ストーブのあまり好きでなかった私はいつもストーブは朝の着替えの時だけ、それ以外はこたつがあれば過ごせた気候の土地だったから

午前中の授業が終わらないうちに、ベランダにこそっと置いておいた雪玉は、冬でも暖かい陽に照らされキラキラと解け続ける水分を光らせながら、どんどん小さく小さくなって、お昼休みにはもうほとんど水溜りになっていた。

 

冬の風物詩、雪だるまというものは、だから映画やお話、本の中で見るものだった。
身体の弱かった、よく熱を出す子供だった私は冬になると学校を休むことも増え、熱と注射や薬でポーっとする頭で、苦しくない時の退屈に本棚の本を取り出しては眺めていたのだけれど、何の本だったか

冬は一面の雪、そんな世界に暮らす女の子と雪だるまのたわいもない話が好きだった覚えがある。

ただその女の子がいつも身につけている赤いコート。それが祖父のくれた赤いコートによく似ていて、赤いコートの女の子が白い雪だるまと並んでいる画を見ると、うれしいような羨ましいような。

コートのボタンだけはちょっと違っていて、それは祖母のコートについた、ちょっと気取ったピカピカしたボタンに似て、あのボタンくれないかなぁと子供の私はわがままを思う。

祖母がそのコートを着ると、私がボタンに触りたがって、見てはうっとりしているので「気持ち悪い」と祖母は言うけれど、あのボタン、根負けしてくれればいいのにな。

あぁでもそんなことより、雪だるま。
いつか大人になったらこの本のような、一面の雪の世界に行って、立派な雪だるまを作ろう。この女の子のように並んで、そしてこの女の子は祖母と違って、友達になったからと雪だるまの胸に、自分のコートのボタンを外すと、気前良く、ブローチのようにつけてあげるのだ。

祖母にもらえなくてもその時には私も素敵なボタンのついたコートを着ていて、でも惜しげもなく友達の証に、と雪だるまにあげて、気前のよい娘になろう。

 

 

ある年、山のほうで雪が降ったと、ニュースにもなっていたから、山の上のほうは毎年少しは降るというけれど、いつもの年より多かったのかもしれない。

でも町には関係のない話。相変わらずその朝もすでに融けかけのシャーベットのような微かな雪が、ほんの少し冬というものを感じさせてくれるだけ。

 

その日朝早くから一日中出かけていた父が帰ってきたのはもう日が暮れて、いつもよりずいぶん遅くて、もう私は半分眠っているような、よくわからず目をこすりながら呼ばれて外に出てみると、父のバイクの後ろに大きな大きな箱がくくり付けられていて、魚かな?とボンヤリ見ていると、とても重そうなそれを父は地面に下ろして、蓋を開けると私に見せた。

「雪だよ」

信じられない。すぐには目もすっきり覚めないようなまま、しゃがみ込んで、手を伸ばす、そっと触れる、冷たい。

いつもの朝の少しの頼りない雪が、ギュッと凝縮されているような、うんともっと冷たい、本物の雪。

うわー、うわー

どれだけうわうわ言っていたのか、いつもはもう布団に入っている時間になっても、ちょっとだけ融けかけてまた固まって固くなった所は父がほぐして、私は手袋をした手でそれを大きな丸になるまで、寒くなっていくのも、時間も忘れて、父と作り上げた雪だるま。

 

出来上がった時には、眩しくなっていた家の前の外灯に照らされて、それは想像していた雪だるまや、あの本よりも小柄で、私とそれほど変わらないか、少し小さかったかもしれないくらいの雪だるまだったけれど、本物だ。そっと頭を撫でたり、顔に触ったり、抱きしめると、冷たい。手がヒリヒリと赤くなって、痒くなるくらい、冷たい。本物の雪、雪の積もらない町で、本物の雪だるま。

 

酔狂ねぇと傍で見ていた祖母はそう言いながら、でもあのボタンを私にくれたのだった。

お父さんはね早く仕事に出てそのぶん早く帰らせてもらって、山まで雪を取りに行ってきたのよ。

だから、祖母も大切なコートのボタンを私にくれて、雪だるまにの胸に友情の証としてブローチのようにつけさせてくれ、食べるもので遊んじゃいけません、といつも言う母も、人参を一本、雪だるまの鼻に使わせてくれたのだった。

 

幼稚園に来たり、友達の家で会う友達のお父さんはみんな、だいたい「えり子ちゃん」「あやちゃん」と女の子の名前がとても可愛らしいもののように「ちゃん」付けで呼んでいるのに、一度も「ちゃん」とつけて名前を呼んでくれた記憶がない。あんまり私のことが可愛くないのかな、不思議な父親だな、と思っていたけれど。

何の得もない、ただ娘が本を読んでいいないいなと言っているから、ただそれだけの為に、仕事帰りに何時間も掛けてバイクで山まで行って、雪を集めて、積んで、また遠い所を帰ってくる。

そんなことをして、娘の喜ぶ顔を見てそれだけで満足そうに自分も笑う。

 

あまりに何も言わないし、子供を苦手そうにしていた人だったからなかなか気付けなかった。でもそれがわかった時から、それだけは一度も疑ったことはない。

いつも愛しているよと言うとか大事大事にするとかして育てられたわけではないけれど、その時も知らなかったけれど

私の一番最初のハッキリと残っている記憶は、雪の降らない町なのに、父の運んでくれた雪で作った雪だるまの記憶。

 

 

今はほとんどの年、冬になったら雪の積もる、多い年には雪に閉じ込められる気がするくらいの所に暮らしていると知ったら、驚くだろうか。笑って、じゃああんな思いをして雪を運んでもやらなくてよかったな、と言うだろうか。

 

私も子供が小さい頃、子供と雪だるまを作ったけれど、でも自分の為じゃなく、子供が喜ぶなら、ただ子供の喜ぶことが楽しく嬉しかったけれど

自分が子供にそう思うのは理由なんてない、当たり前のような気がするのに
自分だってそう思われていた、と思うととても不思議なことのように思える。
不思議だけど、確かで、でもそれは
他のどんな愛情とも違って、この世に一つずつしかないものなのかもしれない。
だからもう他に出逢うことはない、見つけることはないと思うけれど

 

どんな季節、どれだけ時間が経っても
灯り続ける小さな灯りのように、見上げる恒星のように
ずっと胸に残っているあの雪だるまは、融けることも消えることもない。

 

 

10月は父の去った月で、私はいつも一足早く雪だるまを思い出す。雪なのにポッと胸を温めてくれて、いつもここにあることを、季節はずれなのに、思い出している。

 

 

 

 

 

 

 

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