六月に雨が

You should take your umbrella.

百年の孤独

 

 

 

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

 

 

 

初めて読んだのはずいぶん前のことだけど、当時から、豊穣な、という単語をよく聞いた。

家族の、というにはあまりに膨大で、でたらめなほどに広がってどこまでも続いていくかのような一族の物語、彼らが作り上げたマコンドという村の百年間。

 

どこまでも、とどまるところを知らない言葉の奔流。行間なんてない。けれど、あまりに多くを語られすぎていることで触発されるのか、書かれていない言葉まで浮かび上がってくるようで、自分の頭もとめどなくなってしまう。

 

けれど読みながら何かを思ったり感情を刺激されたりするのでもなければ、誰か登場人物に感情移入できるわけでもなく、ただ純粋に読む、そんな物語なのかもしれない。

 

幻惑され飲み込まれて気がついたら読み終わっていて、呆然としてしまうのだけれど、ふつうに本を読み終わって思うような”豊か”というイメージ

読後に何かを得たり、残ったような気がする本というのとは、やっぱりどこか違っているように思えた。

 

 

生まれ育った村を離れ、道なき道を切り開き突き進み発見したマコンドという村の最初から始まり、終わり、消えていくまでの全てが描かれていて

始まって終わった、しかもそれがあらかじめ書かれていた彼らの運命だった、と言うのだから、

情熱的で冒険も音楽も戦争も愛も恨みも欲望も誕生もカーニバルも、ファンタジックなことも、現実的なことも、超現実的なことも…

物語の溢れるほどに豊かなことも全てが本の中で完結し、読み終えればそこには一切何も残らず、すべてが既に閉じた本の中にあったことにただ呆然とするしかないのかもしれない。

 

 

今回読んだ版では梨木香歩の「勤勉と需要______二軒の家をめぐって」という解説があり

読み手をまるで回転する万華鏡の筒の中に放り込まれたように感じさせる

 

という一節が出てくる。

本当に、つい興味を持って覗き込んだら最後、いつの間にやらそんな筒の中に引っ張り込まれている。

それは遊園地にある猛スピードで回転する遊具にも似て、乗れば見慣れたはずの景色は歪んで流れて姿を変えてみせ、その回転が止まるまで勢いに任せて見ているしかなく、降りることも出来ない、やがてゆっくりと速度が落ち、急に周りの風景がはっきりと見えてくる頃になると、それは終わりの近づいている合図、ゆっくりと、完全に動きが停まってしまえば、あとは降りるしかない。

 

 

人間という生き物やごく当たり前の自然のことと、摩訶不思議、魔法のような超自然的なこともごく当たり前のように、渾然一体と書かれているけれど

これを南米の人々は、どう思って読んだんだろう?というのがやっぱり気になっていて、それはやっぱりこの本とその背景にある地方、風土などとに、切っても切れない結びつきがあるのかしら?と思っていたのだけれど、この解説も読んで少し腑に落ちたような気がした。

 

 

南の自然、たとえばジャングルの生茂る緑、人々を駆り立てるような地の熱というものを実際に見たことも、感じたこともなく、だからその確かなイメージも頭に描きにくかったのだけれど

けれどウルスラのように家を維持する為に死に物狂いであれ、ピラル・テルネラのような奔放に溢れさせる愛であれ

人が生き、女達が懸命に営んでいる生活ということは、少しわかるような、近しい普遍的ものを感じていたのだけれど

 

南方のジャングルの、一種独特の熱気と狂気に近い旺盛な生命力は、むせ返るような植物の多様性、奔放さ、獰猛さ 

 

解説で描かれてる南の植物の描写を読んで、この物語の中の人々の生命力や生活を推し進めるものに、あらためて納得できるような気がした。

 

手に負えない、物凄いスピードで、人々の暮らしも脅かし、食い尽くすかのように繁殖し、やがて全てを飲み込んでいく猛烈な自然。

その繁殖の凶暴と言ってもいいような力強さ、成長はやはり南ならではのもので、

その自然の生命力や奔放さ、逞しさは人間達の生きる姿そのもののようでもあり、けれど人の営みはその自然の猛烈な脅威に立ち向かい、競い合い、生き残りを賭けた闘争のようでもある。

 

日本のごく普通の家であれ、どんな場所であったとしても、人の住む所というものは毎日掃除をし、手入れしと、手をかけていたところで
その手を止めれば、あっという間に…といえば大げさに感じるかもしれないけれど、この「100年」というスパンで見てみれば、一つの場所が朽ちるまでなんてあっという間。

 

あるいは人の日常、生活というものだって、食事を作ればすぐ胃袋に飲み込まれ、磨き上げるように掃除をしても、またすぐに汚れる。そこに一緒に食べ物を食べ美味しいと言い合う喜びや、ぴかぴかに磨きあげた瞬間の気持ちよさ、清潔の心地よさ…そんな幸せといえるような感情がもし一つもなかったら、あるいは忘れてしまったとしたら、そこに一体何を感じるだろうか?

そこにあるのはキリの無さ、空しさではないだろうか。

どれだけ空しかろうとそれをしないで人は生きていけないのだけれど。

 

 

ホセ・アルカディオ・プエンディアは道なき道を切り開き進み、マコンドという村を作り整備し…止まるところを知らない勢いで開拓していくけれど、暮らしがひと段落つくと、やれ用は済んだ、後は任せたとばかりに自分自身の世界に浸り、内面へと分け入って行く。
アウレリャノ・ブエンディア大佐の果てしなきと言える戦いの日々も、やがてどこか似ていくように思えるけれど

 

男達と女達、形や向かう方向は違ったとしても、必死で追いつかれないように、追いつけないほどのスピードで、前へ、前へ、動き、進むように、生き、増え、作り、壊してはまた作り…

それは猛烈な自然のスピード、自然を繁殖させ続ける時間というものに、負けまい、追いつかれないように生きることでもあるのかもしれない。

そうやって懸命にとにかく回っていれば、追い越すというマジックを起こすことは出来なくても、やがて追いつかれる時のことなど考えている暇もないし付け入る隙も与えない、と言っているように思え、そうして回っているものには、空しさも追いつけやしないのかもしれない。

 

 

孤独はこの本の男たちに宿病のようにつきまとい、浮世離れした独自の世界へと彼らを篭らせていくけれど、女たちに孤独がないわけではない。

ただ女達はそれぞれ皆の生活を滞りなく運び困らないようにする家庭の運営者としてであったり、あるいは慰めの必要な者をただ愛し、愛を教えることであったり…

与える、ということがまるで自然な役目でもあるかのように生きていくのだけれど、けれど女達はそのことを行うことで、孤独の暗い影にスカートの裾を捕まえられずにすんでいるのかもしれない。

いっぽう男たちは、それは人が生まれてくる、死んでいく時は常に一人であることを初めから知っているような、そんな孤独に思え

女達に愛され子供を成そうと、ほとんどと言っていいほど、興味が持てないようなこの一族の男たち。

まるで生きている間の旅に道連れなどない、過ぎてしまえば忘れられていく、結局は孤独なのだからと、そのことを知っているから家族や他の人にではなく、奇妙な発明や研究、戦争に金の魚作りへとのめりこんで行くのかもしれない。

 

 

最初はただの荒地だったマコンドという村を、一族と共に人々が開拓し、快適な住み良い村となり、時間をかけて発展し、栄華を極めるように多くの人々が訪れる町になり…

けれど最後には何一つ残らないように。

 

 

では100年の時間を、すべてが終わるまでを読み終わって、空しくなったか?

万華鏡をのぞく人が飽き、放り出そうと、万華鏡の中のキラキラはそんなこと、それこそ知ったことではないのかもしれない。

私は本を読む、読者の側ではあるけれど、本を置いた時には、たとえそれほどキラキラとしたものではなくても、それでも自分の人生という万華鏡の中で周り続けるのだと思う。

 

誰もただキラキラとし続けるのみ、そして同じように見えて同じものは一つとないその時たった一度きりの輝きは、飽きて放り出した者には永遠に見ることはできない。

 

 

 

 

 

難しい本の話はそれこそバカがばれるなぁと思ったけれど、そんなこと最初からバレている気もするし、まいいかと思ったことを書いてみた、

こういうことを思った再読でした。

 

この本はいまだ文庫化していないんですね。読んだらすべて忘れるような、読んだら消えるけれど、開けばいつでもそこには豊穣がある本なのだから

こういう本こそ文庫で、いつまでも手元に置いておきたい気もする。