南島小説二題
去年読んでいた本。
ああ、行きたい!と思っていただけたら幸いだ
と著者の言葉がある。メタ・フィクションだという「波の上の甲虫」と連作「からっぽ男の休暇」
たしかに、南の島の休暇の日々は、読んでいてもうたまらなく行きたくなる。日増しに寒さを肌で感じる季節になればなるほど恋しくなった。
風、突然の雨 、肌にはりついて、またサラサラ乾いてはがれていく砂
うたた寝していると、自分がどこにいるんだかわからなくなってしまうような波や刺すような陽射しに
疲れているはずなんだけど、じっとしている気にもならずに、だけど何かをしていても妙にダラダラとしていつの間にか時間の区別も曖昧になって
なんだか自分が砂糖づけにでもなったような気がしてくる、甘くてベタベタの。
だから砂糖の入っていない飲み物を飲むのに、なぜか喉に甘ったるく張り付くようでちっとも乾きの癒えた気がしなくて、冷たいものを次から次へと喉に注ぎ込んでいたくて止められなくなる…
開放感、心地よさと、楽しいのに、だんだんとなぜだか夕暮れの子供みたいに心細くもなり…
夏とか南の、浮いてくる記憶に読んでいると包まれて、だから、ああ、行きたい!って思ったら、行ったら最後、だけど帰るのがイヤになりそう、帰ってきたくなくなるんじゃないだろうか?と思ったのだけれど。
どうしてだかそんな旅のイメージは行きっぱなし、帰って来ない。
実際に行ったら帰るし、帰る予定の無い、わからないような旅に出る勇気はなかったけれど。
だけど帰れなくなるんじゃないか?という、そんな恐怖みたいなものだけは、イメージとしての旅にはなぜかある。
なるほどメタフィクションと言われたらそうだな、と思うけれど重なりながら互いに少しずつ侵食しあっていくような「波の上の甲虫」という話の果てに、自分も南の島の不思議に迷い込んで、どっちがどっちなんだか、フラフラしてくるようで、魂を奪われるんじゃないかと思い
「からっぽ男の休暇」という何もかも思い出せない男の話になると、楽しいというかバカみたいにおもしろい話で、読んでいて楽しいはずなのに、読み進めていくともう最初の甲虫の話も全部ひっくるめて、苦しくなった、というか苦しいんじゃないか?という気が、南の島にいる男、か、男たち、にかしてきてしまった。
迷い込んでしまったような男たちと、よく「自分を空っぽ」にするという、その為に何もない場所にリフレッシュに行くと言うけれど、そもそも何もない男。
童話一つまともに思い出せない男が懸命の努力で思い出そうとする果てに「完璧に思い出した」と言う童話
めりめりとつるつる
に、まったく違うよ!と突っ込みを入れながら笑ってしまった。
うん、ただ笑ってしまった、もう力も抜けて、ただただ笑った、ぶっ、って。
可笑しな男なんだけど
でも、ちっともつるつるなんかじゃない、そんなスムーズなものではない、むしろでこぼこ、ぼこぼことさえ言える男の記憶。
それでも必死になぜか思い出さなくては、思い出そうと、自分を追い詰めてまで童話のことばかり考えてしまう男の滑稽さとせつなさ。
「自分の引き出しにあったはずのものが何一つまともに出てこない」
これはけっこうしんどいでしょうに、と。
だからかちょっと、かなしく思った。
この「からっぽ男の休暇」は以前に読んだものとはどこか印象が違っているような気がして、気のせいかと思っていたらこれのみ「完全改訂版」とのこと。
それでか、とちょっと納得。
こんなに、悲しいんだけど可笑しな本だったかなぁ?ギャグが違う、とかいうことだけではなく、前は確か、読み終わった後にもうちょっとポカンと、妙にさびしかった気がしたと思ったのだけれど…
もしかしたらその後、いとうせいこうが小説を書かなくなった、だからそんな風に感じたのか、あるいは読んだ後に記憶を改ざんしてしまっていたのかもしれないけれど
ともかく日付も忘れて帰りたくなくなるような島で、楽しげでいて苦しそうな男が、本当に帰りたかったんだ、と気付いてチケットを必死になって追いかけるのを見た時
「僕を帰らせてくれ!」という叫びに、なんだか笑いながらうれしくなってしまった今回は。
それは確か。
人ってなんかこう一人になる時みたいなものが、あるんじゃないかと
それは物理的にではないかもしれないけれど、常居る場所や周りの人々と距離を置くことで、自分一人で何事かをせねばならぬ、というような
いや何事も一人じゃないほうがいい人はぜんぜんそうすればいいと思う、必ずしも一人でいるほうがいいってことじゃない、全部必ずいつも一人で耐えろとか言う話じゃない。
ただそういう時間を経ることで、こう精神的な筋肉のようなものがつくことはあるんじゃないかと、だから時に心配してくれる人達に背中を向けてでも、一人で何事かをするなり乗り越えるなり、そんな時というのもあると思うのだけれど。
でもそうやって離れていた人が、前とは少し違っているかもしれない、変化はあったのかもしれないけれど、また帰ってきて
また新たにも好きにもなれたら、それってとても嬉しいことなんじゃないかなと。
そういうようなことをこの本を読んでいるうちに、思って、思い出していた。
なにより別に自分の近くではなくともかまわないんだ、自分だけの世界から、この嫌なことから良いことまでなんでもござれでやかましく、鬱陶しくもある浮世へ再びようこそ、おかえり、というような気持ち。
休暇、非日常の時間て、思うようにいったりいかなかったり、気楽で楽しかったり嬉しかったり、ぽやっとした、関係あるんだかないんだかわかんないようなことを思い出したり思ったり、開いたようでふさいじゃったり、出会いがあれば別れもあったり、どこかせつなくて…そんなすべてをひっくるめた
南の島の良さ
だけではなく、この本が、帰るべき日常へと帰ってくる、帰りたいという気持ちまで全部思い出させる、行きて帰りし、物語だったからかもしれません。
今回のいとうせいこうレトロスペクティブ、シリーズの中では表紙もカラフルなようで、内容は比較的地味かもしれないけれど、個人的にはとてもよかった。それで本を閉じる頃には、南の島の余韻に浸って、だけど読んだほうの心も無事に帰ってこられたような気がした。
ワールズ・エンド・ガーデン、解体屋外伝、未刊行小説集、そしてこの本とどれも非常におもしろく復活してくれて本当によかったと思う。
昔読んでおもしろかった小説って、期待が高すぎて一瞬気まがえもしたのだけれど、そんなものまったく必要なし、でした。
ぜんぜん古くさくもなっていず、むしろ今、今読んだほうがより分る、通じるかもしれないような気がする。なるほど「早過ぎた」と当時言われた通りだったのかもしれないけれど。
「ワールズ・エンド・ガーデン」は難解だとも言われるけれど、解釈は確かに要るかと思いますが、サイバーパンク風SFチックで、言葉の奔流は詩か、前衛的な文学のようで…と様々な種類のジャンルを跨いでというより融合するようにして一つの世界観ががっちりあるので、そういうの苦手ではなかったら、充分に楽しめる本だと思います。解釈はそれぞれ後ですればいい。
エンタテイメント度の一番高いのは「解体屋」かもしれない、実に読みやすく楽しい。
そして書いてない間に書いていたという未刊行集に、この本。
昔のものの輝きもそのままに、少し変わって、帰ってきた新しい本も更によくなって、っていうのは作家として、その一ファンとしては万々歳だと思うので
次は新作の「親愛なる」。積読をいくらか消化したら購入しようと思っています。
しかし彼、あのからっぽ男は、無事に帰れたんだろうか?とふと気になるラスト…もしかすると「帰ってこられない」物語は続いているのかもしれない、まだあの島のどこかで、徹底的にデタラメな童話を語り続けながら…
別々の話でありながらなんだかどこかで絡み合って一冊で正解、と思ったような本だったけれど、それゆえ私の頭はまだ「甲虫」にも侵食されているのか、現実のいとうせいこうは戻って、でも南の島にはまだ…という気もしてきてしまうのだけれど、それもまたメタなのか、それともそれはそれ、あるいはまた別の物語なのかもしれない。
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