レスリー・チャンの香港 張國榮的香港世界
レスリーというスターは、自らが好んでそういしたわけではないものの、香港の現代史と共に歩んできた人だった。
二〇〇三年四月一日、レスリー・チャンという一人の香港のスターがその生涯に自ら終止符を打った時「時代」ということを強く意識したという著者が、彼が生きた時代を紐解くように香港のサブカルチャー五十年史に分け入り、そこで見えてきたこと。
秘蔵されていた美麗写真が入っているのでも、彼の生前の声や姿が収められているわけでもない、
そういうメモリアルな本のように思えば、肩透かしのように感じる人もいるのかもしれない。
一人のスターのことをあれこれ知りたい人もいれば、表に出ている部分だけでいいという人もいるだろうし、様々な考え方があるだろうと思うけれど
どこまでも踏み込みたい、知りたいとは、思わないけれど
それらは絶対ではないけれど、たとえばそこから遠く離れようとすることでさえ、人は時代や場所と全くの無関係ではいられない。
生まれ育った環境、時代、社会…それが全てではないけれど、その人というものを形作っている中にどのように影響し表れているのか、どうして彼は彼という人になったんだろう、と考えることは私は好きなほうだ。
でも多分、著者である松岡環さん*1が
何が見えてくるか_____ それは我々の住む日本とも決して無縁ではない、現代アジアの大衆文化史の一ページとなるはずである。
そう書いていることは読んでいて理解出来たとは思うけれど、私はそういう文化史としては正確には読めていないような気がする。
本書を自ら
”レスリーの評伝としては成立していない、ファンの方には物足りないと思う”
と評しているけれど、そうは感じなかった。
ずっと見てきたことでも、今まで見たことがなかったことでもなく、けれどその後ろに確実にあったこと、もの、見ていなかったことを知り、そうすることで後を追いかけるようにして、彼の生きてきた時代を追体験するように感じる。
冷静に文化史としてだけの本としてはどうしても読めずに、そういう本として私はこの本を読んだのだと思う。
著者の言うように、1956年から 2003年までの香港の社会や生活や文化、その変化について等、本当に現代アジアの大衆文化史の一頁であり、レスリー自身にそれほど興味がない人でも、読み応えのある、学べることも多々ある本だと思う。
私はそのようには読めなかったけれど、いい本だった、読んでよかったと思っている。
そう読まなかったことについては語ることが出来ないし、
以下はだからやはり一人のレスリーのファンが、ファンとして読んでの感想だ。
読もう読もう、と思いながら、開くことがなかなか出来ずにいた。
2013年に、レスリーの逝去10年メモリアルのライブが開かれるよというのを知って、きっと涙ボーボーになるだろうと思いながら、日本の各地でも中継上映されるというのでそれをどうにかして見に行こうと思っていたのが
その頃病院にいたのだった。
…間の悪い…のもいいところだけれど、しょうがない。これもまた巡り合わせかもしれないと自分を慰め、嘆くより…と代わりにというのでもないけれど、病室のベッドの上でこの本をようやく読み始めていた。
最初に「中国とイギリスの狭間で」として語られる、レスリーの誕生から少年期であった一九五六年から一九六九年までの日々。
borrowed place borrowed time. 借り物の場所、借り物の時間とハン・スーインが言った、英国植民地時代の英国領だった香港を背景に
命名からはじまって、彼の本名や幼名について、中国独特の名付け方から英語名まで…
細かく考察されていくそれは、彼のファンではなくても、中華圏や香港の文化に興味があれば知っている話なのかもしれない。
ただ、ここではそれが記されていることで、よく裕福な家庭に生まれたといわれているけれど、経済的な余裕ということだけでなく、伝統的なことを重んじる環境であったことがわかったり
その後も社会状況や教育、娯楽に到るまで当時のことが仔細に記されているのを読むうち、その背景、時代の中で生きてきたレスリーの姿があらためて思い出される。
ティーンの頃の少年期、デビューし花開いていった頃、転換期と書かれている一度の引退、そして再び戻ってきたレスリー。成熟し、以前より落ち着きと成長を感じさせながら、新たな冒険といえる活動に挑んでいった時…
そこには香港の文化や社会的な余波が確かに少なからず関係していたけれど、共に辿られていく話、彼の生きた時代に、いつしかその時々のレスリーの姿が甦り、思い浮かんてくるのを止めることはできなかった。
後から思えばとても初々しく、でも既に若きスターの輝きが溢れんばかりで、誰よりもその場の主人公にさえ見え、眩しいほどの自信に満ち溢れていた姿。
ヒロインよりずいぶんお兄さんのはずなのにやけに愛らしく瑞々しく、けれど古装によく映えていた凛々しい顔。
硬質で生真面目な青年と、正道から外れてしまったけれど志正しい人々との葛藤と、それを乗り越えての情や義。
振り回されていると思いきや、正直な心に気がついて真っ直ぐに愛へとひた走る、
ぐっと大人になっているからこそ、その辿り着いた心情の、ひたむきさの掛けがえのなさ。
再び帰ってきてからは肩から余分な力の抜けたようなナチュラルな歌声で、でも貫禄もついていた歌手としての姿。
ずいぶん前の映画なのに、今もはっとするように鮮烈な、鏡の前で一人踊る姿と、脚のない鳥の話…
歌手として、俳優としての様々なその時々の顔に、インタビューなどで見せていたすごく柔らかな笑顔、優しい微笑み、ちょっと皮肉なユーモアのある表情…
無意識の意識なのかもしれないけれど、あの日からどうしても笑顔ばかり思い出す。苦い顔の映画は封も切れずに、思い入れのある曲も今は聴けなくなったけれど…
明星、という歌を歌って最後まで凛としてスターで舞台から去って行ったアニタには、それでも居ないことが寂しいと、その輝きを思い出し懐かしみ、いつまでも忘れないよと素直に思うことを許されているような気がするのだけど
同じ歌をかつてあなたも歌っていた、覚えている、いつまでも覚えているけれど、そう言っていいんだろうか?まだわからないような気がしている。
それでもやっぱりまだ彼の事に触れ、知りたいと思う気持ちがあってこの本を読んでいたのだけれど
彼の時間は止まり、もう動かず変えることの出来ないことはあるけれど、伝え続け、繋がれていくものもあるんだなと思った。
そしてレスリー・チャンという一人の人だけでなく、一つの場所、時代を知り、今も留まることなく動いているその場所を思う。
今は今だけれど時間は繋がって、続いて来たものだから
思い出すのと同じように、今流れ続けている時間と移り変わり続けるかつて彼のいた場所を見ていこう、見続けていこうと思う本でもあった。
あの年、もう10年、と思いながら読んだサイトに「もう10年になるのです。」と書かれていた言葉に胸を突かれた。
同じように思っていた人がいた、という喜びも悲しみも背中合わせのようにひっついていて、10年前の夜の衝撃も悲しみも思い出したけれど、そこに書かれていた言葉は生きていて温度があり
この本を読んだことと一緒になって冷たかった固まりを溶かし、自分もまた動いている、生きていることをあらためて思ったような気がする。
中継上映は見に行けなかったけれど、後から色々見てやっぱりどうしようもなくボーボー泣いたけれど、それでも私の時間は動いていて
それはどうしようもなく遠く別れていくことでもある、だから哀しさもさびしさもあるけれど、涙を流すことが出来、覚えていること、思い出すこと、見続けていくことも出来る。
それは悲しいことではないと思った。
こうして書くまでまた時間が掛かってしまったけれど
レスリー、まだあなたを思う。
また春が来る。風は吹き続けている。それは悲しいだけのことではないと今の私は思っている。
*1:(同名のやはりアジアについての作家の方がいらっしゃるようですが、アジア映画交流史のほうのアジア系エンタテイメントの本や雑誌でのコラムなどで著名な松岡さんのほうです。念の為)