新しい本の匂いを嗅ぐ ビオレタ
届いた本に「来たっ」と封を開けたらまずいい匂いが飛び込んできた。
新しい本の匂い…こんなにいい匂いだったろうか?と思いながら深く吸い込んで
深く吸い込みながら読み始めたけれど、懐かしい声を聴いたような気がした。
初めて読む作家の本だけれど、落ち着いてページを開くと現れた言葉は知っているような気がして
うん、それは作者である寺地はるなさんのもぬもぬと楽しいブログやもう一つのブログを読んでいたからなのだけれど
読み始めれば、見たことのない知らない話。
寺地はるなという作家のデビュー作であり、新しい本なのだった。
好きな映画監督の作品を一作目から遡って見たりすると、あぁこの人ははじめからこの人の映画を撮ってるんだなぁと感じたりすることがあるけれど
そんな風に寺地さんのサイン、印のような表現や言葉はやっぱりとても個性的で楽しく
でも今まで読んでいたブログなどの文章が少しオープンに開かれた小さな窓のようなものなら、ここに書かれているのは奥の院か、それとも建物の奥にひっそりとある中庭のような、普段は他の人の立入ることのない場所なのかもしれない。
この小説についての雑誌のインタビューで見た時に感じた作者の目は、すべてをしっかりとそのままに見ているようで
そういう目を持つ人には何をどう装ったって正体見たり!とビシッと見透かされそうでおっかないんだけれど
でもこの小説の主人公である妙は、まるっとお見通し!どころか自分の見ていたもの、思っていたことが、実は違っていた、何も見えていなかったのではないだろうか?と
雨の中で泣いていた妙を拾った菫さんや、その菫さんの営む
行き場のないものを入れる美しい「棺桶」を売る風変わりな店
で働き、店に訪れる様々なお客さんや、周囲の人々との出会いや関わりを重ね、少しずつ思っていく、知っていく。
何もわからず迷子のようで、とりあえず、で始まっていく妙の時間をゆっくりと描いていく物語は優しくて、いいことだけが書かれている本ではないけれど温かかった。
みなさんの感想も読ませてもらって、あーなるほど、そうか、うんうんホントにそうだと賑やかに思ったり、寺地さんのブログの同じ記事を思い出している人もいて、嬉しく驚いたりしていたのだけれど
今、読みながら思い出していたその時の寺地さんの記事にしたブックマークをブログに貼ろう、貼ろうとしてブックマークを貼る機能を使おうとしたのだけれど、けれど出てこない…
この機能はあんまり遡れないのでしょうか?
すみませんどうしても出てこないので自分のブックマークページから見つけました。なのでその寺地さんの
私はどうして物語を書きたいんやろう
と始まる物語について書かれていた記事にリンクを張ります。
とその時の自分のブックマークコメントを引用(?)しますが
それが他の”子ども”にも響くのかもしれません。
とわかったようにコメントしていた私でしたが、寺地さんが書いた物語は本当に響いて、響くのかも?かもどころではなかった、とあの日の私に教えてやりたい。
私の中の子どもはポカンとしてばかりであまり話しもしてくれない、ちょっと見かけたと思ったら、そんな時だけ足早にすぐにどこかへ隠れてしまうような子どもなのだけれど
主人公である妙のお父さんが話す妙が生まれた時の話に、いつの間にか一緒にしっかり読んでいて、まるで自分がお父さんの話を聞いたみたいに、一緒にぼうぼうと泣いていた。
その話を読んだ時、自分が産んだ時のことと考えたり選ぶ間もなく、あの子どもの気持ちと寄り添って一緒にいたのかもしれません。
この本の中に流れている時間はなんだかすごく独特で、どうしてだろう?と考えてみたのだけれど、あぁそうか区切りがなく続いているからだと思って
はじめはすごく不思議な感じがしたのだけれど、読み終わってみると
書かれている季節から季節へ、彼らを見て、話を聞いて、まるで同じ時間を過ごしてきたような気がしていた。
始まりから急転直下のようでだんだんゆっくりと流れていく時間は
現実の時間のように続いていくからなのか、なんだか本当に近くで見ていたり話を聞きながら一緒に過ごした人たちのような気がしたけれど
物語に没頭しながら、私は私で自分の奥庭に自然と入り込んでいた気がする。
そこは自分だけの場所で、降りていくことが出来るのは自分だけ、自分でも蓋をしてしまったり、それであったことやどこにあるのかもわからなくなったり、自分でも行けなくなることもある場所で
だから人に連れて行かれることもあるとは夢にも思っていなかったのだけれど
作者の持つ胸の奥のような所、あるいはそんな場所に向けて書かれた物語は
誰の中にもいる、あるのかもしれない、でもうまく言葉や形にならなかったり出来ないでいるものを、もつれた糸の始まりをスルリと引っ張り出して、はい、と手渡してくれるようにして、他の人の胸の底にも響く。
だから意識することもなく自分の内側にもいながら読んでいたのかもしれません。
家族の物語でもあると思うのだけれど、家族だからとかいいという話ではなく、今は家族という呼び方や枠ではくくれない人々も出て来るし
でも家族というのももともとは別々の人と人とで出来ていて、だから家族だからではなく人と人としての関わりや繋がりについて思ったりした。
この本の中で、妙が働きはじめる店で菫さんが作り売っている、その不思議な「棺桶」というもの。
その「棺桶」に私なら何を入れる?入れたい?ともちろん考えてみたのだけれど、まだ今の私にはその答えはわからなかったのだけれど
自分の奥庭に隠すようにして詰め込んだりしていたものが、置かれたきりになっていたものたちがまだそこにあることを発見して
忘れたふりをしていたのかもしれない場所に気付くことはこわいことでもあるのだけれど、作者の筆にスルスルと運ばれるようにして気付けばそこにいたので
自分の奥庭も扉が開かれて、気持のよい風が通ったような気がした本でもありました。
だからこの本を読んで思ったことや感じたこと心動いたこと、「棺桶」に入れるもののことも、どうすればいいのかわかるまで、この本と一緒にゆっくりと携えていこうと思った。
そうなの、読み終わったばかりなのだけれど、なぜかもうまた読むことを考えている。
違う季節に読んだらまた違う顔だってしているかも、また違う発見があるんじゃないだろうか、この本には?そんなことを思ってしまう。
新しい本を読みながら自分の中に残る懐かしい声を同時に聞いていたような、とても不思議なようで血の通った人の色々な人の温もりにも似た物語でした。
いい本を読むとつい美味しい食べ物を食べた時のように「ごちそうさまでした!」と言いたくなるのだけれど
寺地さん、おいしかった!ごちそうさまでした!
おかわり!も言いたい、次の、また違う物語を読みたいというのも思ったのだけど、それは楽しみに、それまではこの「ビオレタ」を読んでいます。これはなんていうかすごくうれしい、楽しみなこと、本読みとしては。
そういえば私は普段は帯とかホント申し訳ないけれどもうすぐ外しちゃう。色々なことを考えたり作ったりしてる人には本当にすまないけれど、本を持ち歩くうちに折れたり落としたりすることを考えるとそうなるなら先に外してしまえと信長のように非情になってしまうのだけれど
この新しいとてもいい匂いをさせながら届いた本に
私に、と贈られたものではないけれど、書いた人の届けようとしたものを受け取るギフトのようなものでもある気がしたからか
まるでギフトの包み紙やリボンにもうれしくなったり取っておきたくなるように、持った手に感じるツルツル(テラテラ ?)したカバーと、柔らかで気持ちのいい帯のまた違った感触を、なんかねこでも撫でているように掌の辺りにずっと感じながら読んでいました。
だからって何も記念撮影しなくてもいいのかもしれないけれどもしかも二枚も…なんとなく馴染むんじゃないか、しっくりくるような気がしたので。
ミニチュアの部屋に。
この帯の心地いい手触りがすっかり馴染むまで、また何度も食べ…ではなく、いや、でも季節ごとに食べたくなる好物のように読みたくなる、読むと思います。