7月はふりかえる ~「短歌の目」七月のふりかえり
電車の中でまで蚊にさされました。背中と腰の間…どう入ってさしたの…
ふりかえろう、と思っているうちにもう次月が来てしまっていて「あー…」ってなってばかりいますが
「短歌の目」7月のお題、自作のふりかえりです。
1.手帳 人知れず印をつけることもなく 手帳にはもう 秘密はないの
予定だけではなく日記のようにしていたり、予定も日記も自分にしかわからない印のようにつけていたりしたけれど
そういうことはもう今はしない、と思ったら
「前はそうしてた」「じゃあ今は?」「(手帳にはもう)秘密はないの」と言ってる南果歩(の役のイメージ)が浮かんで詠みました。
本人じゃない、前に見た役の個人的なイメージだと思いますが、でも何のドラマだったのかな?忘れたので「この時の!」って言えないですが、忘れるくらいだからそんな熱心には見てなかったんでしょうけど印象に残ってる表情、
キュっとえくぼが出て、目のすぐ下くらいまで笑顔なんだけど、なんか目はキラっと挑発してるようで笑ってるようで泣いてるようで…っていう南果歩(の役のイメージ)でした。
これは艶歌になるんでしょうか?秘められたり重なった歌をいいなと思うものの、自分が意識して詠むところまでいってないのですが
この感じはそういう感じです、
ってブコメに引用スターを…と思ってもつかない、つけられなかったのでここで。この間からブログでは出来てもなぜかブックマークのほうでは出来ません。
トップページからじきに固まりそうになったり、これはPCの環境かプラウザなのか何なのかわかりませんが、何かの相性みたいです。
2.花火 天井の升目数える 耳元で ひい、ふう、みいと 花火をあげる
もともとは友達の見舞いに行ったらちょうど花火大会の日だった、というのがあって、友達は安静にでもなく花火を見ながらぜんぜん関係ないことでぶーぶー言ってただけなので短歌にならない話でしたが
病院のベッドで安静にしてる人の耳もとで家族や付き添いの方が話しかけていた光景とか
子供の頃に盲腸で入院して、そんなに安静にしてなきゃいけないわけでもなかったけれど、子供のことだから加減が効かない、テレビでも見ていいよと言われればガッツリ見て大笑いして縫った所が開いちゃうから、耳で聞くだけにしてと言われて、テレビを聞きながら「今、志村けんがいかりや長介殴った?」とかいちいち親に解説を求めていたのとか
そういうのが混在しているのですが、書いている途中で、あ、これは…って、どっちにしよう?どっちかにしたほうがいいのかな?と
迷ったんですが、花火ってその後が少しさびしくもあると思うので、病院って書くとなんとなくそっちのほうへ比重が傾いてしまうんじゃないかと、それで
だからどっちに読んでもらってもいい、ということになりました。
変かもしれないけど、どっちの光景も同じじゃないけれど
色んな花火、色んな花火見た時、花火した時があってそれぞれ違うけれど「花火」というひとつの中では同じでつながりはある、そんな感じかなぁと。
3.虫 始めには気付かず踏んでいましたと 天道虫に 懺悔をしても
幼稚園の頃、ある日てんとう虫を踏んでしまって、あっ、って、ごめんなさいもうしませんってお墓を作って手を合わせてすごく謝った記憶がハッキリずっと残っていて
それで書きはじめたんですけど、書いてみて、あぁこれはその遠い夏の日ってだけではない
何かあるとそこに戻っているようなものだからいつまでも記憶にある、色んな悔い間違いや悪意や罪がある、そういう所なんだろうなと。
そう言いつつ踏んでしまうこともあるのですが、ほんとに虫の季節、蚊だけではありません、トマトが胡瓜がって実ったものをもいでいる間にもう何かが腕を歩いているし
蝉の声もいっぺんにワーッと聞こえて…と思ってるうちにじきにボタボタ落ちてモゾモゾするだろうし、今月はやたらと出歩いていますが八月はその分も部屋にいようと思っています。
どれもそうなんですけど、だんだんと
一人でシーソーみたいな板の上でバランスをとってるような感じ(なんかそういうのありましたよね?ボールを落とさないよう運ぶの…フレンドパークでしたっけ?)のようになってきました。
読んでいると、こう言葉と言葉がスパーク!とか、想像もつかない宙返りだけどスタッ!と見事な着地していたりすると思うのをわーっ好きと思うけれど
自分がそう出来ない、好みと自分から出てくるのはまた違うというのもわかってきたので、詠む時は自分の詠むことだけ集中して見て、詠んだらまた人のを楽しませてもらっています。
あっちへ行きこっちへ行きしながらなので、その間を言語化するのが自分でも難しい、日に日に遅いのもあるけれど、それでなかなかふりかえろうとしてもふりかえれない気がしてきました。
長くなってまとまりつかないというのもあり、だから唐突にあと一つで終わりにしますが
6.プール 通い路の記憶を戻り ゆらゆらの卵にかえる プールでは まる
プールにノスタルジーを感じているようにみなさんの短歌も読んでいても思いましたが、夏休みのプールそのものより行き帰りの通った道とかを思い出したのと
海でもプールでもぷかぷか揺れて浮いてるのが好きで、そうやって気持ちよく満足げにしてるのは、胎児だったり蛙の卵(が気持ちいいなーと思ってるかどうかはわかりませんがなんとなく)みたいだなーと思って
通い路の記憶を戻り ゆらゆらの卵にかえる プールでは
ただこれで完成してしまったのが困った。足りない。どこに二文字を足そうと、入れ替えたり色々して考えてもどうしても出ない、困ったなぁ…で
まる
をどうしようもなくつけてしまったので、「ちょっと痛恨のまる」になった7月でした。
こうして自分の中でもいろんなものが混ざっているので、出した後も色々でもいいんじゃないかなと私のに関しては思っています。
催促しているんじゃないですよ。感想をいただいて、図星をつかれたりその通り過ぎて何も言葉が出ないこともあるし、まったく思いもつかない人の考えがおもしろかったり、自分の気付いていなかったものを発見してそこからまた影響を受けたり、そういうようなことも楽しいなと思っています。
もともと読むことが好きだからそう思うのかもしれませんが、でも詠んでいる時に読まれることまで考える余裕はまだぜんぜんない
外に出すものだけど意識すると私はダメだなと、それでも客観っていうものが身につくものなのか?まだわかりませんが、つくといいなぁと。
あと短歌の本でだったと思う、どれだったか、今ちょっと手元にないのですみませんが、”複眼を”持って見る、詠む” というような話を読んで、あぁいいな、いつかは複眼希望する、と思ったのですがそういうことを希望しています。
あ、枕詞はそれは悶絶しているのですが、今月の
10.ぬばたま
は、菊地秀行とか、夢枕獏もごっちゃになっているかもしれない、栗本薫の魔界水滸伝の最初のほうも?…とにかくそういうホラーSFとか伝奇SF小説のような本で言葉やイメージをずっと読んでいたような気がするので、素直にすぐ出てよかったと思いました。
短歌的、ではないかもしれないんだけれど…
カラスってなんだか知らないけど当たり前のように飛んで来て平然と人の目を見て「カアー」って言う、なんか偉そうだなーって、神さまの使いとも言うけれど
本体というか大元にはなんかデローンてどこまでも広がってうねうねしてる闇がいて、その端っこが行動しやすい形になったのがカラスなんじゃないの?という歌でしたが
そんなカラスが来ると、部屋の奥の奥のほうで知らん顔を装うねこは、台風の影響とかなのか、おこっていた。
屋根のある所とはいえ飛沫みたいに雨もかかるし、イヤなんだから(水が足先にちょっとついただけでピピピピピって足を振りまくる)家にいなさいよと言ってる足元を毛をばっさばさにしながら尻尾ちょっとふくらませて
なんかにおこってる人のようなふん、ぷりぷりぷり…この機嫌の悪いのを見なさいよぉ、と表しているかのようなお尻の振り方で車庫の隅に行って
ふん、という顔で雨を眺めていた。
台風の時いつもじゃない、怯えていたり落ち着かずウロウロ廊下を行ったり来たりしてる時もあったけれど、何にせよ影響受けてるというのはわかる。
まだちょっとあやしいけれど空模様と機嫌が回復するといいねと思う週末になりそうです。