秋天的回憶
気持ちのよい秋の日…じゃなくて12月だ、*1といちいち思わなくてはわからなくなるような天気が続いていましたが、今朝からまたぐっと冷えて天気予報には雪だるまマークが出たり消えたりまた出たりしています。
暖冬だと言うけれど上がったり下がったりの気温に、疲れの出やすい時期でもあるのでみなさまも風邪などめしませんようご自愛ください。
今読んでいる本。
糸井重里とおにぎり…じゃない南伸坊の旅しながらのお喋りの本。どうでもいい話、という言うのはさすがに失礼か…と思ったけれど開いたらすぐ
ゆっくりと変わる風景と、
めくるめく無駄話。
と書いてあった。
長~いつきあいの二人が旅した先と関係あるようでいやない、というような話をゆる~っとしていて活字で読んでいるこちらも「ははっ。いやまぁぼちぼちいこうじゃないか」とたら~んとしてくる。
こたつに入ってみかん食べてるような本。
一区切り読んだら「さて、お風呂にでも入って寝ますか」と言いたくなる。年末より正月向きなのかもしれませんが、行く先々で「なったことがある人がいる」と言い出す南伸坊が可笑しく楽しいので読んじゃう。
子規も笑った。
「楽しい子規も知ってほしい」と天野祐吉が選んだ俳句の力の抜け具合も楽しいけれど、人物の絵に矢印で ”→ 漱石”とか名前を書いてあるイラストにこらこらと思いながらも、パッと見「誰?というか何?」と確かに思ってしまう独特の絵の線に和んだ。
下手うまの仲間なのかもしれないけれど、いやこう書こうったって書けるものではないと思う。
「あのとき、オレとおにぎりは、いくつ(だった)?」と黄昏で糸井重里が二人の長ーいつきあいの初めてをふり返ったりしているけれど
読んでるこちらもずいぶん長ーく読んできたけれど、南伸坊は角ばっているようでその角が丸っこい、絵の線もおにぎりみたいだなぁとふと思った。
ゆるいんだけどご飯粒がぎゅっとしっかり詰まってるようだ。
その他読んだ本。
保坂和志の「カンバセーションピース」だっただろうか、読み終わっているのにいつまでたっても「ここを読んでいたっけ・・・」と場面を思い出し、読みかけの途中に思われてしかたなかった。この本も読んでいる最中からそういう風になっていた。
いつになったら奥さんに会いに行くんだろう?と思いながら作者の歩みにあわせるようにゆっくりと読んで・・・いたつもりがいつの間にかあちこちの道へ迷い込まされ、どこかわからない場所へ連れていかれながらいつの間にか思いがけないほど饒舌だった話を聞いているようで
同時通訳か多重音声のように自分の記憶の断片が再生されそうになる。
だんだんと読み終わるのが信じられないくらいいやになってきたけれど
id:fktack さんの小説を読んでいた時に「終わってしまった」と思ったけれど「いやでもここで終わりだし、終わっているけれど続いていく」
と奇妙なことを思ったことを思い出した。
(略)彼はあと二十年間を生きる方法をあみ出した。小説から史伝にうつった」
引用の引用なのかよくわからなかったのだけれど、作者は最初からこのようなスタイルの作家ではなく、70年代からこういう風になったのだ、というのをどこかで見ていて
それはどうしてだろう?と考えながら読んでいたからかもしれない、
この一文が妙に残ってメモしてあった。
”読みながら思っていたのは自分の記憶と時間の事だった。
自分を中心にというか、自分というものは時間を通り過ぎてきて今にいるけれど
過ぎてきた時間は振り返ればないわけではなく、時間を輪切りにしてみればその中にその時の自分がいる”
読んでいる途中思ったこともメモに書いてあったけれど、何にどうしてこう思ったのか今の私にはもうわからなくなっているのだけれど、でもこの本を、あるいは小島信夫の他の本を、またこういう風に読むんだろうと思う。
それぞれの本はまた別かもしれない、ぜんぜん違うことを思うかもしれないけれど、過ぎてきたその時々の自分がまるで別人のよう、既に別人だったとしても、自分であるように。
徹頭徹尾作者である小島信夫自身のことを書いている(それが本当かどうかいわゆるフィクションなのか云々ということはあまり関係のないことだと思う。)本なのに核心のようなものを探しているうちに迷い込むのは自分のことで
読み終わった本をこういう本だった、と普通は自分の中の本棚に収納されていくけれど、読んでいる最中は小島信夫のことを読んでいるのに、重ねあわせているわけでもないのに、何度も読むうちに自分の過ぎてきた時間のファイリングがされ混在していくように収納されていくんじゃないか。
何かわからないけれどわからないまましかしいつまでも読んでいくんじゃないか、と思ったのと何か一線を越えてしまったようなこれからの残り時間に読んでいく本についてのことを思ったりした。
ぜんぜん違うんだけれど
これまた記憶を、こちらは実に具体的にイメージを喚起させる言葉が文章が冒頭から次から次へと並んでいて
しかしその言葉、冒頭から例えば布や衣装、ドレスの作りや縫い方についての一つ一つが実に具体的に描写されているのに、ハッキリした像が結べそうで結べないということにイーっとなり脳が痒くなりながら物語の奔流に飲み込まれていった。
ぜんぜん違うんだけれど頭や自分の中を連れ歩かれたりショベルカーで引っ掻き回されているような本を立て続けに読んで、しかも一冊はまだ読んでいる最中のような気ばかりしてしまうので
その後読んだ本がするすると読みやすかったようでちゃんと入っているのか心もとない気もしますが
近藤史恵の梨園を舞台にした女形と探偵もののミステリーのシリーズが好きで読んでいるのだけれど、その新作かなと思って読んだらぜんぜん別の話でしたが
やはり梨園を舞台に、役者という特殊な世界の話ではあるけれど親と子の話であった、事件ではない人の心を解くような落ち着いたミステリーでした。
そして帰って来た「私」
16年ぶり、というのにあぁそうかぁ…と思いながらしかしなんというか「黄昏」なんかもそうですがそれだけの時の過ぎてきたこと、本についての話(本や出版の現在の状況)なんかには「ねぇ・・・」と一抹思いながらも、変化にさびしくはあまりならなかった。
むしろ誠実なのではなかろうか?と思ったり、変化もふくめ今読めることがうれしかったり
そしてこの本を読んでようやく、いつまで置いたままにしとくねん?と自分でいやになるほど、ちょっと落ち着いてからも何もいっこうに落ち着きやしないので置いたきりにしてあった「火花」をようやく読む時が来た、準備は出来た気がしました。
しかしコマコマと中断しながら読みたくはない、なので冬休みに読むんだいと思いつつ今は黄昏をぼちぼち読んでいる。
冬こそ読書、と思うような空模様に今年はなるのかどうかまださっぱりわからないけれど一応秋~冬の始まりの読書日記でした。
*1: 写真は秋の日の写真です。