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六月に雨が

You should take your umbrella.

Blue sky

photo diary 読んだ 積読

 

 

 

3月の末頃、一足早く咲いていたハクモクレン

 

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少しおかしな気候に「はっ!」と思ったのだろうか、一本だけ例年より早くから咲いて、他の樹の花が咲いた頃には一足先に駆け抜けたように散っていたあわてん坊。

でも晴れ晴れと咲いていたのは気持ち良さそうだったし、なにより陽光は偉大だとのちにしみじみ感じた花の季節でしたわ。

 

日曜の話を今頃する。予報では雨だったのがハズレ、この空に負けないほど青い青い青い空だったけれど風、風、風。

桜はとうに終わっているけれど先週からもうハナミズキも例年より早くパカパカと咲いていて大丈夫かしら?と思っているうちに強風が暴風になって色々なものが飛んでいった。車庫の屋根とか小屋の窓とか、人に当らなくてなによりだけれど、

台風でもなく雨も伴わない風だけでしかもこんなに空がピカピカ晴れ渡っているのにこれほど荒れるということに馴染みがなかったものだから「なになになに?」と一同ちょっと理解が追いつかず唖然とした。

空がやけに晴れ晴れと青いのもにこにこ笑顔の人が暴れてるようで、なにがなんだかにちょっと拍車をかけていたのかもしれない。

 

 

 

 

読んでいた本。

前に書いたけれど読みたい、読もうと思う本を積んでいたらわくわく動物ランド化していてビスケットが食べたくなってしまったけれど

 

 象とうさぎは読みました。犬は旅行記エッセイなのでパラパラ気楽につまみ食い読みしている。

 

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象というか象だけれど「猫を抱いて象と泳ぐ」はチェスの話でチェスなんかまったく門外漢の私はどうしよう・・・と思ったけれど、奇妙な話、数奇な人生という寓話的にもなるかもしれない題材でもあるというのに、不思議といえば不思議だけれど、はじまった時から確固としてある。
どこにだろう?
小川洋子が書いたのだから小川洋子の中に、と思うのが正しいのかもしれないけれど
作者の内面の物語や世界を読んでいるような気はしてこなかった。
小川洋子の筆によって読んだけれど、どこだかは知らないけれど確かにそれはあり、見ていない時も読み終わろうとも確かに存在しているような気がする。

 

読み始めた途端に握手した手をそのままぐいっと、無理にではなくけれどしっかり力強い手で引っ張られたようにそこへ引っ張り込まれていたなぁと思いながら読んでいくと

 

小川洋子の『猫を抱いて象と泳ぐ』は、冒頭からいきなり強い力で読む者を話の核心に引き込む。

 

と解説にあってなんかうれしい、

夢中で読んで解説までそのまま突入して、誰が書いているかも確かめていなかったのだけれどこの解説を書かれたのはどなただろう?と最後まで読んでいったら(俳優)と書いてあったのでえ?と解説のはじめに戻ってみたら「山崎努」と書いてあってちょっとビックリした。

 

二人きりでひっそりと歌う快感、デュエットの愉しさがあった。

 

こういう本を読んでいはるのかぁと、しかしこれも解説の中の一節だけれどいいなあとあの顔を思い浮かべつつ。

 

うさぎの「いつも彼らはどこかに」は短編集でまたずいぶん違っている。

表紙やタイトルなどから優しげな本かと思ったけれど、いつもどこかに、というのは慰めの要る時ばかりでなく人や人生の残酷さにさえ寄り添っていたりするからかもしれない。

だから小動物など小さいものたちの温もりというようなものを求めて読むと裏切られたような気がしたり、淋しさを感じるかもしれないけれど、

思いがけなかった後味のあとしばらくすると静かに、優しいだけの話ではなかったけれど読んだ本一冊分の小さな重みはやはり小さな生き物の重みのようで悪い気はせず。

 少し不思議で静かな本でした。

 

いつも彼らはどこかに (新潮文庫)

いつも彼らはどこかに (新潮文庫)

 

  

でその後はねこ、ねこ、ねこを・・・と

 

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 思っていたのだけれど少し脱線している。

 脱線のはじまりはネズミMOUSE。

 

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ドラッグやそれに伴う幻覚と誰かの妄想や悪意も区別がつかず惑わし惑わされ、それが時に愛になり時に死にもなる…近未来を舞台に自らも自分達を「マウス」だと言う子供達の混沌と暗く危なげな世界を舞台にしたSF。

関係ない短編のようで繋がっていて収束していくという世界観の本で

だいぶ前に積んで忘れていたっ、と読み始めたらおもしろくてとまらず読みきってしまった。これは復刻で、ずいぶん以前に読んだような気がしていたけれどどちらにしたってアホちゃうかと自分に思うほど見事に全て忘れていたので非常に楽しく読んで

そのままSFに頭が向いてしまいそのまま新版の「ハーモニー」へとなだれ込むように読んでしまっていた。

難しいか私には?と思い読んでいなかった本を、順番で言えば後のほうから読んでしまったら理解が及んでいるかどうかはともかく非常におもしろかったので、これはまた作者の本を遡って読まなければと思ってしまった。

 

そしてその頃これが来てしまった。

 

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「伍佰・台北」2014年12月発行の伍佰三冊目の写真集。

2014年12月発行のものを今頃・・・というのも発行すぐ後くらいに台湾へ行く人がいて「買ってきてあげよう」というので「ではお任せしましょう」と言っていたら直前に予定が変わり別の所へ行くというので「じゃあネットでも買えるので」と言ったのだけれど「いや、もう少し、必ず台湾へは行くから、買ってくるから、少しだけ、少しだけ・・」と言うのでそれじゃあ・・・と待っているうちに2016年になって

さすがにもうそろそろネットで購買しないと買えなくなってしまうかも・・と思っていたらついに件の人がこの春に台湾へと行ってこれも購入してきてくれたのだった。

 

長い間待っていたぶん、というのでもないのだけれどやっぱり舐めるように見て読んで眺めてしまっている。

読んで、とはいっても今回は後書きに変えてとか、本当により言葉が少ないというかほとんどない。

けれど「台北ではなく伍佰の本だ」ということは見ればわかる。

 

 

一冊目の写真集「伍佰・風景」では伍佰が日本を訪れた時の写真も多く収められていて、日本の、北海道や箱根や京都、大阪・・・自分も行ったり生活していたりもしたよく知る場所もあり、その町を台湾から旅人として訪れたであろう伍佰の目線や感情のようなものを感じることが出来るようで、それもとても有趣、おもしろいことだった、旅であり風景であり伍佰という感じの写真集だと思ったのだけれど

 

台湾、台北らしさ、というならたとえばこの本を購入してきてくれた人であるとか、日本人観光客や仕事で外国から台湾を訪れた人の写した写真を見たほうがよほど台湾らしいと思える写真にお眼にかかれるだろう。

 

少しバイクが多い、看板や色々な字が国語(繁体中国語)だ、建物の窓の外側のあれは何て言うのだろう?柵のようなもの、あれの感じなんか少しやっぱり違う、
けれどそういう違いを除けばパッと見て日本の道路や建物や人混み、車・・・ほとんど違いはなく日本のどこにでもありそうな道に日本の男性と大差ないスーツの男の後姿の写真であるとか
「見て」と突然パッとこの写真を出されたら「(日本の)どこ?あなたの近所?」と言うかもしれない。

例えば台湾の誰かが「僕たちの住む町・台北はこんな所、遊びに来てね」という思いで出版する写真集だったとしたらまず選ばれることのなさそうな写真のような気がする。

 

 

でも何となくこことこれは違う場所であるとか季節の違いや、時間の流れをなんとなく感じ

大きい道路、小さな路地、抜け道のような道、大きなビルやその隙間に隙間無く密集しているような小型のビルや家、そしてたくさんのマンションやアパート・・
自分の普段の暮らしとそう大きくは違わないような殊更何を言うでもないような場所や場面に

そう思うとこの本が極端に言葉少なであることも当たり前のことのように思えてくる。

特に言葉にもならずすることもなく習慣のように通り過ぎていく景色。
たぶん過ぎていく時間の中変わり行く都市台北という場所もふくめ彼自身ということなのだろう。

 

だから私にとって見知らぬ都市、馴染みのない場所である台北を、ここで長年暮らし、仕事をし、歩き、走り、出会い、別れ、喜んだり悲しんだり、言葉にならない出来事や経験もし・・ここで生活している馴染んだ眼を通して見、

ほぼない言葉の代わりに伍佰という人の生きてきた時間のすべてではないけれど幾分かの彼の生というものを読むように

ねっとり舐めんばかりにこの写真集に貼り付いているのかもしれません。

 

そして写真集を見ているうちになぜか、写す側の目という方向に行ってしまったのでしょうか

後からと思っていた本を先に読み始めてしまっているのだけれど、映画監督が切り取る35の風景の中の「再生」という話は今読んでよかった気がした。

 

 

 

そういうことで「ねこねこねこ」にはもう少しかかりそう、ねこねこねこたちよもう少し待っていてくださいと思ってる4月の宵なんでした。

 

 

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