フンコロガシ先生の京都昆虫記
虫は苦手だ。好きか嫌いか、の前に怖い。何が怖いのか?
虫とかヘビとかの苦手、怖いはほとんど楳図かずおのせいかもしれない。
あとは昔やけに放送していた昆虫パニックものの洋画。
それらが混ざり合って、とにかく寝てる間に…とかどこからともなく…と忍び寄ってくるような描写は忘れられない怖さで
だから手足を引っ込めるだけでなく、眠る時にはしかと口を閉じて寝ているのだけど
「眠ったら開いてるで」「うるさい」
それはともかく、そんななのに、京都、というのと表紙の写真に惹かれてなんとなく手にとった。
前書きの「はじめに」を読んでいると、
J・H・ファーブル『昆虫記』は文芸の領域に押しやられたという人もある
などということも書いてあるし、博物学であるとか自然学であるとか、とにかく学の本のようでしたが、すいません。私ただのおもしろがりです。
おもしろそうだなーと思うほうについフラフラと行ってしまう。それだけですと謝りたくなりましたが、
同じく「はじめに」で
とあるのを読んでちょっとおぉ!というか、花や草木、虫の名前までは知らなくても、季節によって変化があり、その年によっても大いに違いがあり、ある時雨が降り水が流れ、花が咲き虫が飛んで…というようなものをぼ~っと見るともなしに見ていては、これらも生きているな、見ている私も生きているな、同じようなものだな
などと日頃ぼんやり思っていることと、この本には接点があるんじゃないかな?と思って読んでみた。
熊楠先生の言葉は他にも書かれているのだけど
「小生思うにわが国特有の天然風景はわが国の曼荼羅ならん」
私が生きていることと空模様とかと虫たちとかは、それぞれに関係しあったりしながら、等しくこの国でも場所でもどっちでもいいんだけど、とにかく形作ってる、ということだよね?
そこばかり考えて生きていくことは無理でも、あんまり無碍にしたり無茶をすれば、自分にも帰ってこないわけじゃないというか。そんなような感じ。
「かつてはこうであった」「今はこのようになっている」という生きものとの共生や日々の探検の観察や記録なのだけれど、そういうのの中の私も一つだなと思いながら
文芸よりな読み方かもしれないのは申し訳ないのだけど、著者が日々歩いているという散歩道、京都御苑の四季から描写されていく、虫たちや小さな生きものの生きいきとした姿、自然の状態を、読んでいるのはとてもおもしろかった。
歩いたことのある御所や加茂川、鞍馬さんの描写に、季節ごとの気持ち良さを思い出し
それに考えてみれば、日本の文芸というか文や詞にしたって、自然を抜きには語れなかったんじゃないだろうか、春って曙よ~から始まって…と思ったりしながら
生きものたちの道はヒト種と共有している。しかし生態回廊はヒト種の道のように単純ではなく、生きものたちの移動、排泄、捕食、営巣、隠れ家など多様な道である。
道ばたのイタチの糞を見つければ、すぐ近くに二ミリメートルほどのマメダルマコガネがスカベラそっくりのフンころがしをやっているのかも知れない。
そうあるのを読んでいると、京都の風土とそこにいる生き物たちの、その張り巡らされている繋がりは、ミステリーや、縦と横の糸で丁寧に織られた小説のようにも思えてくる。
この本で描写されている虫たちの姿は怖くもなんともなく、そうして読んでいるうち、苦手もちょっとは克服されてきた気さえする。
触るのはちょっと…かもしれないけれど、ヒラヒラと秋の花に誘われるように飛んできた蝶も、庭から転がり出てきたダンゴ虫にも、なんとなくニコニコとしてしまったり。
私がひどく単純だというのもあるけれども…
鳥や虫たちの姿を図鑑で追って見ながら読むとよりおもしろそうと思う。
こういう映画や
ネイチャードキュメンタリーを見ているように感じ、詳しい人ならより楽しく読めるんじゃないかと思うけれど、門外漢にも意外なほど楽しい、おもしろかった本でした。
秋の京都にお出かけするぞ、という人もこういう本を片手に旅してみると、また違った京都の姿、紅葉の周りに生きるものたちの気配や、ヒトの道だけでない交差するような虫たちの世界なんかも見えてきて、一味違う楽しい旅になるやもしれません。
しかしおやすみ2秒(おやすみ!と言って2秒で熟睡)のくせしてどうして夫は私が口開いて眠っているのは知っているのだ…虫より油断がならないのは夫かもしんない…