猫怪怪など
読んでいた本。
怪よりも作者が怖い今作。自らを猫ばかと語っているけれど、解説に書かれているようにこれは「極北」だと思ふ。怪怪系作家(?)加門七海が病気の仔猫と出会って暮らし始め…猫との日々を綴った、猫と怪の本。
そりゃ油断していたら猫に後ろから頭突きされて「きゃっ」ってそのまま前転しそうになってたって怒る気はしないけれど
仔猫・のの様が健やかになられる為ならばと持てる力のすべてを惜しみなく使い、正に全身全霊でお猫様に尽くす加門七海の姿には、さすがに「ここまでっ?!」と言いたくなった。
怪怪系の作家であるだけに「持てる力」「使う手」のあれこれも、猫に尽くすと聞いてふつうに思い浮かべるようなものではないし
一歩間違えたらおっかない…わらえないわらえない。本当に一瞬「怖っ」と思った、作者の愛を。
だけどなぁ…藁にも縋りたい人やところににつけ込む、ほーらこれで助かるよ、と藁や藁でもないものを差し出すというのは絶対ダメ、と思うけれど
ただ、神仏に祈願しないか、と言われたら、私はする、した。初詣と大差ないくらいのものだけれど。
気休めにしたって、というより、人間の身体だっていまだ100%解明されているわけではないでしょう?生命力っていうものの中に体力と一緒に気力のようなものも含まれているんだとしたら、気が休まったほうがいい気がしたし
治してくれ、っていうのとちょっと違っていたような気がする、後ろにいてもらうと安心できるようなのと似た感じ。気持ちの保険みたいなものかもしれない。
加門七海も「保険のようなもの」と書いていたけれど、彼女の場合は出来るだけのことをしておかなかったら後悔すると思ったから、というのはこれは側にいるほうの気持ちとしてわかる気はすると思ったけれど
ただやっぱり加門七海の「出来るだけのこと」は、ある意味こういう怪怪の専門家だからだと思って、素人は「怖っ」と思ってるくらいでちょうどいいのかもしれないと思う。
敵に追われているところにふと良さげな刀がポン、と置かれていたら思わず手に取りたくなるけれど、使ったことない使い方も知らない刀を振り回そうとしたって自分がケガをするだけ、もしくは取られて逆にやられちゃうぞ、逆に怖いっ…と思うような臆病な人のほうが案外いいのかも、そして猫もそれぞれなら人もそれぞれと思える人向きの本かもしれません。
やっと読み終わった本。
細切れに読んでいるのでなかなか集中できていないけれど、えーと
保存版と銘打たれた「河野裕子の魅力」という大特集がよかったです。総論が二本と全歌集の解説が掲載されていて、どういう風に読めばいいのかとっかかりにもなる、何より初心者にもとても魅力の伝わってくる特集だなと思いました。
河野裕子の歌集を読みたいと思った。
それから前から気になっていた「ハナモゲラ短歌」が、知らずに買ったのだけれど連載されているではないか!というのもうれしかった。
しかもどこで見たかは忘れましたがどこかで見たことあった気がする、糸井重里の「山の美しさを詠める」という題のハナモゲラ短歌がやっぱりとてもよかった。
そのほか「歌壇時評」という、タイトルは固そう難しそうでちょっとむりよ…と思ったのだけれど、読んでみると時評の内容や紹介されている短歌に興味を持ちました。
歌壇時評は二本掲載されていたのだけれど、二本とも一般の書店で流通していない文学フリマで販売されていたりする短歌のことがとりあげられていて
取り上げられていたのは「太郎」という「短歌同名誌」と「北大短歌」第三号の北山あさひの短歌など。
それぞれその本や短歌についての評や考察から短歌における「私」や短歌の背景や中に表れる人や時代についてという話になっている。
フリマは行けなくても通販で購入することの出来るものもあるようなので、また調べて問い合わせてみようと思う。
全体的には私にはNHK短歌のほうがわかりやすいし合っている気がしましたが、それは私がまだ感覚的にや共感の部分等でしかいいなというのがわからないからというのもあるのかなと。
巻頭31首では、社会的なことを詠んでいるということだけではなく「春の会合あまた」と題している通り、たぶんそのあまたの会合のこと、参加しての思いなどがそのままありのままに書かれている連作、ということなのかな?と思ったのだけれど、
その日の短い日記やメモのような形で並んでいるのがちょっとどう受け止めればいいのかわからなかった。
角川短歌クラブの「誌上添削教室」や題詠、公募短歌の選ばれたのやその評も少し載っているんだけど、NHK短歌のように噛みくだいてくれている本のほうがまだ私にはわかりやすいのかもしれません。
とにかく時間がかかったので8月から積んである本はまだ積んだまま…
なのに一緒に並んでいたのでつい一緒に買ってしまった本からつい先に読み始めてしまっている。
詩の雑誌は「鳩よ!」以来かもしれない…*1
短歌と詩は何がどう違うんだろう?というのも思ってあとで読もうと思っていたのですが、巻頭から谷川俊太郎も参加している特別掲載「日中韓三ヶ国語連詩」という連詩が掲載されていて、パラパラ見るだけのつもりが続けて読みはじめてしまっている。
連詩に参加した三ヶ国四人の詩人のあとがきのような話もふくめとてもおもしろいんだもの。(わっはっはのおもしろいではないです。)
そのあとに続く谷川俊太郎の特集で対談も色々楽しい。対談での俊太郎の一言
こういう四行を小説のひとたちはだらだら書くわけでしょう。
ふいに隙をつかれたようで笑ってしまった。
でも小説の山田詠美は、
詩ではなく歌詞の話でだったと思うけれど
”あの、という言葉で色んなことを想起させるんじゃなくてそれをちゃんと書くのが小説家”みたいな話をしていたっけ。
両者ともにそれぞれの違いは私が言うまでもなくわかっていての話だと思いますが。
そして椅子が壊れて猫が乗っただけで自動的にしゅーって下がっちゃうので目線がとても低くなり落ち着いて感想も書いていられないのですが、読んでおもしろかった本。
SF短編集。表題作のオニキスをはじめ、それぞれの短編の世界観、描かれ方がおもしろく読みやすい短編種だった。
各短編ごとにそれぞれのまだほんの一部分だけを見ているような気がしたので
違う世界に見えていたものがやがて大きい一つの話になって…というような長編も読んでみたいなと思った。
ピエタ慈善院で育った少女達と彼女達に音楽を教えたヴィヴァルディの、長い長い時間の物語。表紙買いしたけれど思ったよりずっと大人の本でした。
謳いあげるのではなく抑え目の美しさ、静謐という言葉の似合う本のような気がする。
だからもう少し大人っぽい表紙でもよかったのでは?と思ったけれど、むすめたちの心に秘められていたものに焦点をあて描かれていく、むすめたちへヴィヴァルディが与えたもの、与えたかったものという話に、この愛らしい少女達の絵であっているのかもしれないと読み終えて思った。
18世紀、水の都ヴェネツィアという話のバックグラウンドをあまりよく知らないので申し訳なかったけれど。
ジュヴナイルのような、と確か読みかけの頃に書いていた気がするけれど、どっちかというと児童小説のような雰囲気の話だった。
始まりから子供たちやその生活にあまりにすっと馴染め入り込めて、まるで同じ空気を吸っているかのように彼らを近くに感じられる、とてもよく知っているような気がするなぁと思っていたのだけれど
それもそのはず、話の舞台となっているのは今よりもう少し昔、70年代くらいという設定でした。
今の話だけれどファンタジックなお話でもあるので、時代を超えてノスタルジーを覚えるような空気にしているのかなと思っていたよ最初は…
児童小説のような雰囲気だけれど、でもそういう時代の話でもあるので大人が読んでも大丈夫じゃないかなと思います。
上巻から漂っていた独特のムードが気持ちの良い文体から、しかし
後半はだんだんちょっと急に駆け足になっていくのだけれど、もともと新聞の連載小説だったというけれど、まさか連載だったから?このままじゃ収まらない…とかではないですよね?と少し思ってしまったけれど
読み終わってみると、あぁこの子供たちももう今は大人になっているんだなぁと描かれていない未来=今のことに思いを馳せたり
始まりからの、図書館や夜の学校とかプラネタリウムとか…小さい頃に大きい建物に感じていた、謎や秘密がいっぱい隠されているんじゃないか?と不思議を想像したり期待したりしていた気持ちの甦った、ともに七つの夜を冒険しているような気がした本でした。
前にこのシリーズで
木村弁護士が雑誌読むのすごい遅い、とにかく時間かかる、次の号までに読み終わらないんだよというような話に「なにを言ってるんだろうこの人は?」と不思議に思っていたのですが
「ハナモゲラ短歌」がまず読みたくて角川短歌9月号も読んでみようと、思ったまではいいのだけれど、このペースでは読み終わる頃には10月になっているかもしれません…
どの雑誌がとかの前に、各月間とか季刊とかだといいのにと思ってしまう今のペースでは…だから「クウネル」は読み続けていられるのか?
あ、クウネルのこの号
本と人でインタビューされていた南伸坊がとてもきれいなおじいさんになっていた。もうおじいさんなんだ…と思う前にまず「きれい」と思ったのが印象的でした。新刊のインタビューで新刊もまた読もうと思いましたが
このシリーズとか
これもずいぶん前の本だけどおもしろかったです。
これはまだ読んでない、読みたいので忘れないように貼っておく。
*1: 詩もくわしくはない、書店ナマハゲのように「おもしろい本はねぇが?!」と書店を覗くとおもしろい本や雑誌がどんどん出ていておもしろかった頃にちょうど創刊されたので読んでいた。