六月に雨が

You should take your umbrella.

私信のようなもの 

 

 

 

自死についての話です。苦手な人は読まないでください。

 

 

 

リコさん( id:ricoteas )さんの記事を読んでコメントしたのですが


のちに香水に耽溺する中一女子の嘆き - fork and cream chair

 

やり取りの中で自分の言いたかったことがわかってきたので、まずちゃんとわかってなかったのにコメントしちゃってごめんなさい。

長くなりそうなのもあり、続きはこっちで書きました。

自分で書いておいて途中でわからなくなっちゃった、わかりにくいコメントに、

リコさん、真剣に率直に答えてくれてありがとうございました。

もしよかったらまた目を通してもらえたら幸いです。

 

 

 

リコさんの記事を読んで思い出したのは10代の頃の恩師の死についてで、でもそれを私は一人で目撃したわけではなかった。

”非常に運が良かった状況”というレスにそうだったかもしれないと思いました。

その時一緒だった人達とは、望んでない考えもしなかった状況に、突然一緒に陥ってしまった。

だから他の人の反応を気にするしないの前に、一つの塊のようになって

みんな同じことを考えていたのでも、一人の人のようになったのでもないけれど、
誰かが誰かの腕を掴んでいたり、どこかに触れていた覚えがあるし

人の肩に頭を寄せたりそうやって甘えながら、誰かがわっと感情が噴出せば、あるいはずっと黙ったきりぼんやりしているのに気がついたら、触れたり抱きしめたり、そうしようと言ったわけでもない、自然とそうなっていた。

否応なく同じ経験を共有させられるようにしたことで
精神的にもどこか繋がって一つになっているようなものだった。

誰もその中で「他者」ではなかったのかもしれません。

だから自分と同じかどうかとか、他の人の反応を気にかけることはなかった。

 

その後に、一緒にはいなかった周囲の人から好き勝手を言われたり批難の目で見られたりした時も
一人ではなくずっと誰かと手を繋いでいたり
それで腹が立ったり傷ついても
批難の目で見ていた人たちも傷ついてやりきれなかったのかもしれないけれど
でもそれを私達にぶつけてどうするの?と思えたんでしょうね。

 

ただその時に、それを相手に言ってもしょうがないと、言う前になんとなくわかった。
私達からしてみれば、同じ人を亡くして同じように私達も悲しい、やり切れない、
でも批難した人達からしてみれば、私達は違ったんだ、だから批難できるんだ、
彼らが私達に「異」だと線を引いた、引いている。
それはどうしようもないのかもしれない、一緒にその場にいた者にしかわからないのかもしれないと思った。

でもそのことで、自分は自分にとって理解出来ない、やりきれない状況でも
それを人にぶつけるのはやめよう、自分が線を引くのはしないでおこうと学んだ。

 

 

だって誰に言われるまでもなく、私達の間で、どうして気付かなかったんだ、いやどこにもおかしい所なんてなかった、気付きようがなかった、止めることが出来なかった、自分を責めて考えて考えに考えてもそうする理由なんて分らなかったし、異変なんて後から思えばあの日はいつもより明るかったかもしれない、いつもと少し違っていたかもしれない、そういえば、でもそれはその事がなかったらそう思うこともなかったかもしれないような、その事があってはじめてそういえばと気がつくような変化でしかなかった…口に出すだけじゃなく何度も思っては

誰かが口に出せば本気でそうじゃないと納得してもらうまで、誰かがその事で思いつめたりしないように、気を配りあっていたことだった、

でも人にはそうやって必死で違う、と言えても自分で自分のことにはそう思えずに何度も考えていたことだったから。

 

 

後に自分が自死遺族になった時に、やっぱり色々言う人はいたけれど
その経験があったから、今度は私一人でも
色んな人がいるんだろう、と思えていたけれど
直接言ってくる人には、それを相手が理解しようとしまいと「黙れ」と言ったし
私にとっては言うべきだと思ったんですね。

 

私は自分が経験していない人生を生きていないから、もしそうじゃなかったら自分がどういう風に考えていたかは、永遠にわからない。

でも同じ経験をしていなくても、自分から線を引こうとしない人は知った。

一緒に人の死を経験した人たちでもなく、家族との死別の経験もない友人が、そっと私を連れて出て、泣いていいんだよ、と言ってくれた、でも泣かないんじゃなくて泣けない今は涙が出ない、泣きたくなった時は泣かせて、と正直に言ったことをそのまま受け入れてくれたから。

そして泣かない私に何も言わずにいてくれた人もいたから。

だから経験していようといまいと、線を引かずにいることは出来ると思っているし

少なくとも何を思ったとしても人にぶつけずにいることも、異なるという理由で勝手に線を引いて、勝手に人を線の向こう側に置いて批難しないでいることも出来ると

批難の目で見たという人達に思ったんだと思います。

 

 

そもそもリコさんの経験とはまた状況も違うことだし、反応してコメントしてしまったけれど、ごめんなさい。

コメント欄で説明できることでもなかった。

 

 

私が最初の経験をしたのは10代の時だったけれど、その時も後にも、年齢に関係なく色々なことを言う人はいて

人の死に立ち会ったから、遺族だから、同情や理解をして欲しいとも思わない、思うのは誰でも好きなように思えばいい、そう言うまでもなく

それぞれがそれぞれに思うものだと思うんだけれど

誰かの自死で誰かを責めるのは、たとえ相手が子供でも止めなさいと私は言いたい。

 

だから子供達に言いたかったことを書いておきます。

 

ショックや驚きがあるかもしれない、ただ自分と違う、他の誰とも違った反応を示した人に驚いたり思わず反応してしまっただけなのかもしれないけれど

だから私もそれを責めてはいけないと思う、責めないけれど

誰かの死に何かを感じたのなら、その人とその死だけを見て欲しい、と私は思う。あなたが今は真っ直ぐに見るのが辛かったとしても。

 

自分の感じた感情を今は自分だけでは抱えきれなかったら、それをそのまま正直に伝えられ、不安を受けとめてくれる相手があなたにいることを願うし

私も身近にいる子供の不安を受け止めてあげられるようにと思ってきたけれど

あなたの不安を、みんなやあなたと同じではなかった人にぶつけても、それはあなたにとっても何もならないことだから。

あなたと同じではなかった人に、もし腹が立ったのなら、それは誰の為にそう思ったのか?少しだけ考えてみてほしい。

 

 

今はわからないかもしれない、大人になってわかるかわからないかは知らないけれど、誰かの自死の周りで誰かが責めたり責められたりする必要はないし、そんなことは誰の為にもならないっていうことを伝えないまま大人になって欲しくはないと

思っています。

 

 

自分ちの子に話をしたことはあっても、整理して考えたことはなかったので、リコさんの記事に思わず反応してしまったものの、コメントを読んでいるうち、考えたわかってきたことだけでも書いておくことにしました。

 

 

最初にコメントで「理解」と書いたけれど、私の最初の状況では理解を確認しあうことも必要もなかったし、その後に理解も無理解も見て

理解するかどうかより、理解出来なくてもいいからそれだけは止めて欲しいと思うようになったことを、ごっちゃにしてしまっていたのだと思います。

 

理解そのものについては、自分が理解してもらえる部分があったら嬉しいと思うこともあるけれど、してもらおうと思ってしてもらえるものでもないし、全てに必要ではないと思っている、

ただ理解をするしないを超えて、理解出来ない相手と同じ場にいる時にしないでいられること、出来ることがあるんじゃないと思っているのですが

それはリコさんの言っていた「尊重や譲歩」なのか

私自身は相手に求めるというより、まず子供にそれを伝えておきたかった、話も少しはしてきたんですが、だからリコさんの記事に出てきた中学生の子供達にも、伝えたいなと思ってしまった気がしています。

 

それはリコさんの過去に起こったことだけれど、だから私の考えはここに、これから誰かが見るかもしれない、伝わるどうかわからない拙いしまとまりもない話だけれど

伝えたいという気持ちを書いておきます。

 

 

やっぱりわかりにくかったら申し訳ないけれど、これはリコさんへの私信のようなものであり

幾つかの身近にあった自死を自分の中で整理しきれていない部分があるからどうしてもやっぱりまとまりよくは書けてないのだけれど、それでも書きたいと思った

以前書いた話とはまた少し違う、それにたぶん向けているところも違う、身近でそんな経験をするかもしれない人たちへの話かもしれないけれど、繋がったところもある自死についての話です。

 

 

 

自死そのものについてのことは以前、やっぱりまとまっていないですがその時思うことを書きました。苦手な人はご注意ください。

 

 

生きろ - 六月に雨が