マダム毛沢東 江青という生き方
強烈。
児玉清の推薦文が帯に書いてあったので、じゃあ、と読んでみたのですが、清の言うことを聞いてよかった、と思った。
おもしろい、と言うには彼女のしたことはあまりにあまりだけれど、かなしくもありおもしろかった。
冒頭は、読みにくい。
三人称かなと思ったら「私は」「私は」…読みにくいったらないと始めは思ったけれど
強烈に、生きるというより突き進んで行くような江青という人、その人生に、じきにぐいっと引っ張り込まれていた。
少女は、と語られていたものが、割り込むように
私は…あたしは…
言い始めるのが、抑えようとしても抑えることの出来ない、溢れ出してくる叫びのようにも思え
少女が雲鶴となり、新人の女優として舞台に立ち始めてもまだ
私は…江青は…
イライラとしかけて、気付いた。そうか、まだ「私」は「江青」ではないのだ。
この本は、例えばヤオトン(毛沢東らも居住していた中国の華北,中原,西北地方の伝統的な洞窟型の住居)の前に、毛沢東と江青が並んで立つところまでが本当で、
ヤオトンの中に入ってからの二人のやりとり等は小説だ、とあとがきにも書いてある、実在の人物や団体、史実を元にしたフィクション、小説ではあるのだけれど
今まで見たことのある江青の写真、そこからイメージされるものと、この小説がピタリと合って、ほんの少しですが近くに、一人の女性の姿が今までより浮かび上がってくるような気がした。
雲鶴として 一九一九~一九三三
藍蘋として 一九三四~一九三七
そして江青として 一九三八~一九九一
三度名前を変え、脱皮でもするように大きく変化していったけれど、父母、そして社会から与えられたと彼女が思っている痛み、苦痛から始まる少女の物語。そこから始まったことを彼女は生涯忘れられなかったのかもしれない。
母と娘のけして交わることのない会話があり、母であり、かつては娘でもあった江青自身が少女の頃から呪詛のように掛けられた彼女の母の言葉…
本は本、これは江青の物語、と距離を置けない人は読まないほうがいいのかもしれない。
毒そのものよりも、それに囚われて突っ走ってしまったかのような江青の一生が、けっこうじわじわと効いてくるから。
封建的な制度、社会、そして家庭の中で一番貧乏くじを引くのは一番弱い存在である少女で、そんな生活から逃れなくては、と母は5歳の女の子に纏足をさせようとする。
痛みは脊髄にまで達し、ゾウのように腫れあがった足からは腐臭がし始め…それでもすべてはお前の将来の為、と解いてもらえない。
そんな社会は滅びればいい、と思っても、そりゃ無理はないと思う。
思うけれど、その後に多くのものを得て、もう誰もあなたを苦しめたりしないと思う存在になっても
与えられたものをぶつけ返さずにはいられない、私の苦しみを知りなさい、傷を見なさい、痛みを味わいなさい、さもなくば死を
だってそうしないと私がやられる、またこんな目に会わされるのはたくさんだ、だから、やられる前に、すべての敵には死を。
自分を苦しめたもの、環境や時代に対する怯えと反発、そして自分が持たなかったものを持つ人々への憎しみで生きたような日々。
たしかにとんでもない権力を手にし、あんなわけのわからない大革命を行い、一つの国と時代を滅茶苦茶にしてしまった人の一人ではあったのだけれど
その生き方にあったのは、欲望というようなものではなく、もっと痛々しいもの、だから少なくとも遠すぎて理解出来ないような、権力を持っていることを当たり前に思っているような権力者というような存在ではなかったような気がした。
生涯彼女は意識として女優だった、とこの本では語られていて、それが今までに見た革命の地に立っている若い日の姿や、後の、質素だけれど若い人民たちの母で革命家である、というような、なんというか、出来すぎに思えるような写真、その自分への演出が完璧過ぎるように思える姿に、ピタリと重なって、違和感なく一つになったような気がしたのだけれど
「若い娘はたとえ正しいことだけをしていても、人生が台無しになることもあるのだと知っていた」
一度目の結婚でそう知ったといい、けれど頂点に上り詰めるまでに一体何回結婚しているのだ?と思うほど、よく結婚しているけれど、この本を読んでいるとそうしたのもとてもよくわかる気がした。
舞台に立っていない時も女優であると思っていたのなら、古い役を脱ぎ捨てるのは当たり前のことだったんだろう。それがあまり上手く演じられたとは言えない役ならなおのこと。
彼女が権力を手に入れた後に女優時代の彼女を知る人々が弾圧され粛清された、とよく読んだり見聞きしていたけれど、いまいちピンときていなかったのが、スッと腑に落ちていた。
彼女が力を得るにつれて、疎ましく排除したいと思ったのは「彼女がけして優れた女優ではなかったことを知っている人々」だったんじゃないだろうかと。
正式な演劇の訓練を受けていないことや、女優としては容姿がコンプレックスだったように言われていたり、この本でも、だから華やかな女優としては活躍は出来なかったのだ、と彼女が思う場面が描かれているけれど
取り付かれたように違う自分を演じることは出来ても、舞台上と下の区別がつけられなかった彼女には、女優は向いていなかったような気がする。
人前で何かを表現する人というのは、誰も見ていない時間がどれだけ重要かを知っていると言うけれど
江青には、観客のいない役割は耐えられない。誰かが一目置き、感心し、評価を与えてくれなくては。
恋愛や結婚も相手役として相応しいか、彼女を最高の女優として賛美するような相手ばかり。
「愛している」と自分をも騙すように陶酔し、のめり込んでいるようでも、相手役が舞台からほんの一時退場しただけで、一人で待つことも出来なければ、躊躇なく自分の役割も脱ぎ捨てて、新たな舞台を求めてしまう。
俳優が時に失敗作のことを「なかったことにする」と言うけれど、彼女にとっては恋愛や結婚もそんな風で、初めから望んでもいなかった相手、最初の夫などにいたってはその存在さえなかったことにしてしまうのも、ただ過去を隠すというようなことではなかったように思えた。
彼女のことをただの相手役、それもあまり良い相手役ではないように扱った俳優への執着、復讐も、だから凄まじかったのかもしれない。
認めた相手に認められない、望んで望まれないことは辛い、苦しいことでしょうけど
何かあったのならまだしも、何一つない、屈辱を知るのは彼女の心のみだというのに
何の罪もない人を権力に物をいわせ、汚名を着せてまで何年と牢獄に閉じ込める。
そんな余計なことをしなければ、誰にも知られることのなかったような屈辱でさえそれを許せず、誰だってすべての人に認められるわけがない、という当たり前のことが認められなかったんだろうと。
それは否定されることから始まったような彼女の人生にとって、耐え難い、けれどただ前に突き進む人生の原動力でもあったのかもしれない。
自分は生まれつき女優だ、と信じ込んでいても、映画界の名声や実力のある監督や俳優には認められず、大きな評価は得られなかった。
次から次へ、役割を演じさせてくれる場を求め、ついに手に入れたのはやがて国家を率いることになることが誰の目にも明らかだったという男。
簡単に手放せるもんか、と思うのも無理はなく、過去の自分を欺くようなことも、いわゆる世間体うんぬんというより、マダム毛沢東、江青という役を演じ続けていたからに思える。
ようやく手に入れた最高の役は、誰にも簡単には否定出来ない、十億の観客が否応無く目にする舞台。
ただ、男性の力があったから、おこぼれのように力を得られたのではなく
はじめからとてつもなく力を持っていた女性に思える。
運命に、境遇に、決して屈しなかった強い女性ではあったと。
どれほど裏切られようと運命に果敢に食って掛り、求めるものを見つけたら猪突猛進!そういう意味では人の目など一度も気にしたことはなく
かつて党に在籍し、たまたま社会派の役を演じ多少の好評を得ていた、だからといって、内戦の最中にいきなり本拠地に赴いて、それを率いる男の目にとまろうとする…誰がそんなことをしようと思うだろう?普通なら、支離滅裂もいいところ、妄想か、と言いたくなるような行動に何の迷いもなく、ぐいぐいと突き進んで手に入れずにいられない。本当に手に入れてしまった。
いつの時代、何処にいても、その中にいてノーと言うのはとても難しい。
時代が、制度が変化し、ほかにこういう価値観もあるということがある程度認められてから、間違っている、と言うことは容易い。
意義を唱えなかった者に、なぜ?と言うのも。
(言えなかった人のことを踏まえたうえで、その人たちの為にも間違っていたんだと言う、言い続けることは必要なことだと思うけれど。)
でもその中にいて、それが当たり前だと考えている人々ばかりの中で
どれだけの人が「私は纏足なんてごめんだ」と言えるだろう?
多くの少女が、足を切り落とすことになっても逆らうことなど出来なかったから纏足の女達は存在していた。
それを無理やりにでも解き、逆らい、自分の置かれた境遇に嘆くより反発し続けた力。
その使い方を、他に知らなかったのが残念に思う。
自分に持つことの出来ないものを絶対に認められずに、全力で人をなぎ倒していった彼女に、嫌悪感を抱く人がいるのは当然だろうと思う。
自分が持たないものを持つ人々を自分の視界から永遠に排除することにではなく
かつての自分のように持たない人や、強いられる少女たちに、少しでも目をむけていたら、残ったのはこんな悪名ではなかったんじゃないだろうか。
自身の根源にある恨みや怒り、妬みに、内側から食い破られるように朽ちてしまった。
文化大革命という狂乱の中で若い兵たちの行ったことは、彼らを生み出した江青そのままに、不平等があるなら、持つ者を攻撃し、引き摺り下ろし、叩きのめせ…本当にひどいことだと思うけれど
ただ、あまりもの悪評は少し気の毒といおうか、彼女に罪があるならその夫も同じじゃないかとあらためて思った。
彼女にとって最高の晴れ舞台は、他の人々にとっては壮大過ぎる悲劇で、でも多くの人を踏み台にしてまで彼女が演じていた舞台は、彼女より役者がずっと上だった夫にとって、保身の為のちょっとした幕間の出し物に過ぎなかった。「全て悪いのはあの四人だった」そう人に、自分に、思わせる為の。
彼女を攻撃した内部の人々の心理も、なんというか、集団心理ってそうなんだろうなぁとひどく納得できるような気もするけれど
集団のトップに気に入られナンバー2の座に収まった者がいたら、たとえトップに問題があったとしてもナンバー2を攻撃するほうが
トップに失望したり止めようとしたり争ったり…そんなことをするよりはるかに簡単で、自分達をこれ以上失望させなくてもすむ。
どっちもどっちなんて、そんな自分達のこれまでも否定するようなこと、口が裂けても言えないんだろうなぁと。
それでも彼女が行ったひどいことと、彼女だけを葬りさって知らんふりをしていることは、同じくらいひどいことに思える。
読み終わってから、ディスカバリーチャンネルで「冷戦と毛沢東」という番組をチラっと見たのだけれど、スターリンの死後にスターリンを否定したフルシチョフに毛さんは激おこだった。そりゃあ自分の将来を見ているようで、ゾッとするあまりカッとして全身の毛を逆立てるように怒ったのも当然、死んでも認められんことだったんだろうな、と思うともう顔が歪んでしまった。
この本の前に読んでいて不思議だった本。
ミステリーなのだけれど、タイトルと表紙に引かれて、一応というか、かなり大きな殺人事件、ある村で一晩のうちに村人のほぼ全員が惨殺される…という大事件が起こり、その謎が解かれていく…という話かなと思って読んだのだけれど
その謎解きの方向にではなく、興味深くなったのは、主人公である女性裁判官ビルギッタが事件に関わり、謎を追ううちに回想していく、自身の青春の日々が、私にはとても不思議な気がした。
スウェーデンの裁判官である彼女が青春時代、遥か遠い国で起こっていた社会運動の影響を大いに受け、自らも齧り、心底憧れていたものは紅衛兵だった、というのが
ヨーロッパ、スウェーデンという国にも、そういう風に思っていた人たちがいたのか、と思うと、不思議な気がしたり、事件と平行するように描かれていく、中国から来た男の辿った運命や、やがてビルギッタが訪れる現代の中国…
自分の見ている角度とはまるで違うからなのか、なんとも不思議な味わいの本だった。
種類はぜんぜん違う、これはアメリカのミステリーだけれど、印象にどこか通じるものがあったような気がした
- 作者: ドンウィンズロウ,Don Winslow,東江一紀
- 出版社/メーカー: 東京創元社
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個人的には、この口が悪くてナイーブなニールという青年探偵が主人公のシリーズのほうが、おもしろい小説だと思うけれど、西洋、って一くくりに言うのもずいぶんな話だとは思うけれど、奇しくもどちらも文革など色々、日本から見るのとはたぶん一味違った中国観というのもおもしろかった本でした。