スローターハウス5
ちびちび、のたりと読んでいた本。
スローターハウス5 (ハヤカワ文庫SF ウ 4-3) (ハヤカワ文庫 SF 302)
- 作者: カート・ヴォネガット・ジュニア,和田誠,伊藤典夫
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1978/12/31
- メディア: 文庫
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年明けからずーっと、ちょっとずつちょっとずつ読んでいた。間に少しは他の本も読んだのだけれど、もともとそういう読み方は普段はあんまり出来ない、しない。
一冊読み終わってから次のを読む、あるいはいくら読もうとしてもこれはどうもむいてないな、と思ったら諦めて切り替えて…とするほうなのだけれど
おもしろくないわけでも、苦手な文体でもない、なのにちょっと読んでは置き、また手にとって…最初に読んだ時もそうだった。なぜかさっさと読めない、こんな風にしか読めない、この本。
繰り返される「そういうものだ」(So it goes.)
何回出て来るんだろう?数えたくなるけれど、それは炭酸水までふくめたありとあらゆるものの死。
トラファマドール星人によると
死んだものは、この特定の瞬間には好ましからぬ状態にあるが、他の多くの瞬間には、良好な状態にあるのだ。
だからトラファマドール星人と、彼らの考え方を皆に教えようとしているビリーはただ肩をすくめて「そういうものだ」とつぶやくのだけれど
トラファマドール星人の宇宙船に攫われ痙攣的的時間旅行者となったビリー・ピルグリムは、時間の流れから解き放たれ未来と過去を行ったり来たりする。
スライスされたそれぞれの時間をそれぞれに生きているように、断片的に切り離されたビリーの様々な時間と時間の間に語られていく、第二次世界大戦での捕虜体験、ドレスデン無差別爆撃という大虐殺の記憶。
小説だけれど
ここにあることは、まぁ、大体そのとおり起った。とにかく戦争の部分はかなりのところまで事実である。
冒頭で語られているように作者であるカート・ヴォネガット・ジュニア自身の体験であり、半自伝的小説と言われている。
やっぱり冒頭の長い前置きのような文章の中で、本書を書くと契約をしたシーモア・ローレンスに向かってカート・ヴォネガット・ジュニア自身が言う。
サム、こんなに短い、ごたごたした、調子っぱずれの本になってしまった。
だがそれは、大量虐殺を語る理性的な言葉など何ひとつないからなのだ。
そのような理由でそのように語られている、このようにしてしか語りえないことなんだろうと思う。
人に何かを伝える時は、わかりやすいよう物事を整理し、正しい順番に並べ、余分なものはなるべきはぶき、伝えやすく、伝わりやすいように
シリアスな話は出来るだけシリアスに…話を組みたてるべきなのかもしれないけれど、
それは相手の為であり自分の為であり伝えたい内容の為にそうであるなら良きことなのかもしれないけれど
でも、もしそのように語るとしたらその話の何かがそこから失われてしまうということもあると思う。
村上さんっぽい言い方だけれど、そうなっちゃうんだけれど、でも村上さんを読むよりたぶん前だよこの本私が最初に読んだのは。
それはともかく、だけど村上さんもどこかで、友達が死んでる話で友達が死んでるような感じがしないよ、とか言われていたのを見たような気がするけれど
そう思う人もいれば、あのねなんでこうも違うかね?いや違っても当然か、でも人はみな死ぬけれどそれぞれの死があるなら受け止め方もその表されて見えることだって、それぞれじゃないか、少なくとも私は村上さんの本の中にある死の空気、そして死とともに生きるその後の感じなんかも、とてもそうだよねと思うんだけれど
そしてこの本に漂うユーモアってヒューマンなんだよねと思うユーモア、悲しさ痛み愚かしさ滑稽さ。
戦争や大虐殺の経験なんてないけれど、ないからこそ読むんだし、それに多かれ少なかれ年をとると、人は死にすぎる、こんなに死ぬかね人って、と思う時もあるけれどそれは自分が年をとったということなんだよね、と自明のことをあらためて思うしかない、そう思ったら薄れるというものでもないんだけれどもさ。
ともかくこの最初からの途切れ途切れのような、時間を行ったり来たりまた戻ったり移動するビリーに
なぜかピッタリ合わせて入り込むように、同じように途切れ途切れにしながらでしか読めない本だ個人的には。
「そういう小説だ」という話じゃなければ、一冊の本としてテンでバラバラなわけでもなくちゃんとまとまっている、と思う、他の人にとってはほとんど意味のないことを私は今言っているのかもしれないけれど。
そのようにして語られるビリー・ピルグリムの様々な人生のろくでもないこともあれば素晴らしいこともある時間の断片、人生の一日や数年、数日や数時間、場合によっては一瞬のような出来事を読み
一緒に行ったり来たりするように追いかけているうち、だんだんと、現実の何分何秒とその何分何秒かに起こる出来事の長さも噛み合わなくなったり、
時間が奇妙に歪んで延びる飴のように延びたり縮んだりして感じられてくるからというのもあるのかもしれない。
ドイツで捕虜になったり列車に詰め込まれたりしていたと思うと、唐突にニューヨーク・シティに行き深夜放送に出演し「空飛ぶ円盤によって地球からトラファマドール星人に誘拐され…」と自身の体験を喋り娘や周囲を困惑させ呆れさせ、そしてまた戦場へ。
どんな小説であれ受け取ることはその人次第、それぞれにそれぞれのものを受け取るのかもしれないけれど
私がいつも静かにこの本を読んでいることを強く意識するのは、娘が結婚した夜、ビリーが深夜に一人で戦争映画を見ている時間。
いつもの行ったり来たりする時間のようで、ここだけ静かで特別に感じる。
ビリーは戦争映画を逆向きに見る。
逆回転で深夜に見る空襲の場面では爆撃機は後ろ向きに飛び、銃弾や金属の破片を吸い取り…やがてすべてが元の場所へ
それらが二度とふたたび人々を傷つけないようにと戻っていく。
ビリーはその後にもう一度正しい順序で映画を見るけれど、逆向きに見た映画は正しい順序で見るよりずっと正しい。
この場面を読んで、そう、ビリーと一緒に思っているような気がする。
時間を逆に回すことはできないけれど。静かな願いがこの物語の主題ではないと思うけれど、この場面は私にとってこの物語の底、終わりでも最低でもなくて、気がつけば静かに降り立っていて、あぁとこの物語の中にいることを思う場所のような気がする。
ビリーにとっては、大きな影響を与え人生を変え、彼をそのようにしてしまった、彼の人生の中心になってしまった出来事かもしれない。
概ねどの出来事もそのように、そうではなかったほうの人生を生きていないから、もしそうではなかったらと考えることにあまり意味はなく、そういう意味では他の出来事となんら変わることなくその人生においては等しいのかもしれないけれど。
だけどか、だからか、私があるいはあなたが戦争を体験していようといなかろうと、この物語を書くにいたった作家の物語を読んだり、必要になったりする時があるのかもしれない。
ゆっくりと途切れ途切れにしか読めなくて、読んでいる間じゅう”そういうものだ”的な反応になってしまったり、なかなか読み終われないものだから他の本がぜんぜん読めないしで困るけれど
それはそのうち直るというか戻るだろうし。
”そういうものだ”なんて冗談じゃないと思う人もいるかもしれないけれど
トラファマドール星人からビリーが学んだ
ときにはどれほど死にきっているように見えようと、われわれは永遠に生きつづける
だから「人はありとあらゆる時間に生きている」というその考えが
もしかりに真実であるとしても、わたしはそれほど有頂天にはなれない。
とカート・ヴォネガット・ジュニア自身はそう言っている。
奇妙な世界に落ちてみる?
と帯に書いてある、やっぱり奇妙な小説だったけれど、「読んでよかった」とやっぱり言い切れないけれど
そして読み始めたのが年明けで、とりあえずタイトルだけ…と下書きに入れておいたのが2月の日付だったけれど…
最近読み終わった、読んで「よかった」と思う本でした。
これ ↑ を読み終わったあと、時間を取り戻そうとしているかのように、素早く読んだこの本もおもしろかったです。
素早くというか普通の速度で読んだけれど、しかしこれも腑に落ちるようにコトリと胸に入ってくる本だった。また何度もふと取り出しては読む本になるのかもしれない。なんちゅうか、困ったことだと思うけれど本当にそうだねと思うことが書かれているような気がする本だったから。
腑に落ちない、が正しい日本語で落ちるは正しくないという話があるの知ってるんだけれど、覚え間違えているにせよそう覚えてしまっていて、感じた時に言葉にするならもうそうとしか思えないから使っているけれど、正しくないなら
他になんていえばいいんだろう?五臓六腑に深く染み入る?…それじゃあなんだか日本酒のCMか何かのような気がしてしまうしなぁ個人的には…
今週のお題「最近おもしろかった本」